ラッサールの『公開回答書』
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「全ドイツ労働者協会」の記事における「ラッサールの『公開回答書』」の解説
この頃、労働者の間ではフェルディナント・ラッサールの『労働者綱領』が話題になっていた。ラッサールはこの本の発行によって検察から起訴されて裁判にかけられていたが、全ドイツ労働者大会の準備を進めるライプツィヒ中央委員会の2人の議長ファールタイヒとオットー・ダマー(ドイツ語版)は、ラッサールの裁判を傍聴してラッサールの演説に感心した。ファールタイヒとダマーは1863年2月にラッサールのベルリンの自宅を訪問し、労働運動方針について指導を求めた。ラッサールはその返事として1863年3月1日に『公開回答書(ドイツ語版)』を出版した。 その中でラッサールは進歩党は信用ならないので進歩党から独立した労働運動を組織する必要があると論じた。また労働者を「賃金の鉄則」から解放するため労働者階級自らを企業家にする必要があるとした。具体的には労働者の自由な同盟と国家の援助によって企業体「生産組合」を結成させて賃金と企業利得を一致させることで「賃金の鉄則」から離れて労働者階級の状況を改善させることができると唱えた。この生産組合においては労働者は毎週慣習に従った賃金を受けつつ、年末には営業収益の分配を受けることになる。国家は定款の認可と業績確保のための介入を行うが、国家にこのような強力な干渉を行わせるには、国民が自ら選んだ立法府の存在、つまり普通選挙が不可欠であるとする。そして普通選挙を求める合法的運動を行うために労働者を「全ドイツ労働者協会」として組織する必要があると結論した。 以上を趣旨とするラッサールの『公開答弁書』は、3月17日のライプツィヒ中央委員会で採択され、つづく3月24日のオデオンでの全国労働者会議でも採択され、これを基にして全ドイツ労働者協会を結成するための新委員会創設が決議された。ラッサールはライプツィヒ以外にも支持を広げるべく東奔西走して演説して支持を拡大していった。
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