ラッサールの指導
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「全ドイツ労働者協会」の記事における「ラッサールの指導」の解説
初代会長にはラッサールが就任し、日常業務を取り扱う幹部会委員の書記にはファールタイヒが就任した。ラッサールは主にベルリンで、ファールタイヒはライプツィヒで協会の拡大のために熱心に活動した。ラッサールは10万人の協会員の確保を目指していたが、彼の生存中は4600人を超えなかった。その内訳は多くがアメリカ南北戦争の影響で痛めつけられたライン地方の織物労働者たちで、素朴な人柄のプロテスタントたちだった。 ラッサールはベルリンでの活動中プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクと秘密裏に複数回の会談を行った。この会談でラッサールは普通選挙の欽定を求めたが、ビスマルクが選挙法改正をちらつかせてラッサールを篭絡するにとどまった。 一方ラッサールとファールタイヒの関係は悪化した。ラッサールが中央から独裁的な指導を行うのに対してファールタイヒが支部の自主独立を訴えるようになったためだった。ファールタイヒは1864年2月1日に書記を辞任し、ドレスデン支部長に転じることになった。しかしその後もファールタイヒ周辺はラッサールにとって頭痛の種となった。ドレスデン支部長になったファールタイヒはラッサールの方針に反して進歩党との連携を図り、ラッサールを憤慨させた。またラッサールのライバルであるカール・マルクスの一党であるヴィルヘルム・リープクネヒトがロンドンからドイツに舞い戻ってきて全ドイツ労働者協会に入会し、ファールタイヒと接近を図りはじめた。ビスマルクとの秘密会談をリープクネヒトに突き止められる恐れもあり、ラッサールにとってはいつこの周辺から陰謀を仕掛けられてもおかしくない危険な状況になった。
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