ラッサール派とアイゼナハ派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
「ドイツ社会民主党」の記事における「ラッサール派とアイゼナハ派」の解説
1863年5月23日、プロイセン王国の社会主義者フェルディナント・ラッサールがザクセン王国首都ライプツィヒにおいて全ドイツ労働者協会(ADAV)を創設した。ドイツ社会民主党では、同協会の創設をもって自党の創設と見做している。この協会は普通選挙を労働者階級の社会的利益を十分に代表させる手段として、その実現のため合法的手段で労働運動を組織する事を目的に掲げていた。プロイセン衆議院の第一党であるドイツ進歩党(DFP)やドイツ国民協会(ドイツ語版)などブルジョワ自由主義者の影響力から脱して創設されたドイツで初めての労働者階級独自の政党だったが、指導者のラッサールは普通選挙や社会政策、ドイツ統一を実現するためには王党派のプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクと接近することも厭わなかったため、民主主義革命への志向は希薄になりがちだった。 そうしたラッサールの親ビスマルク的労働運動を嫌っていたイギリス亡命中の社会主義者カール・マルクスの支持者ヴィルヘルム・リープクネヒトとアウグスト・ベーベルは、1866年にザクセン人民党を創設し、ついで1869年8月のアイゼナハ大会でマルクス主義的なアイゼナハ綱領(ドイツ語版)のもとに社会民主労働者党(ドイツ語版)(SDAP)を創設し、ビスマルクによる小ドイツ主義ドイツ統一事業、すなわちオーストリアをドイツから排除してプロイセンの権威主義体制を全ドイツに拡大させる形でのドイツ統一に反対した。全ドイツ労働者協会と社会民主労働者党はビスマルクや北ドイツ連邦への評価などを巡って対立を深め、やがて全ドイツ労働者協会は「ラッサール派」、社会民主労働者党は「アイゼナハ派」と呼ばれるようになった。 しかし1871年3月にラッサール派指導者ヨハン・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)が辞職するとラッサール派の親ビスマルク的傾向は減少し、アイゼナハ派もオーストリアを除いた統一に反対しなくなっていたため、両者を対立させる重要な論点がなくなった。さらに1874年1月10日の帝国議会(Reichstag)の選挙(ドイツ語版)で両派は同じぐらいの票数を獲得して共に議席を伸ばしたが、もし合同して選挙戦に臨んでいたら更に2、3議席取れている計算だった。この選挙結果がいきり立つ両者を鎮静化させる役割をもたらした。さらに官憲がラッサール派もアイゼナハ派も問わず弾圧を行っていたため、両者の連帯感も増していた。 こうした背景から両派は徐々に結びつき、合同政党を作る機運が高まった。
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