ラッサールの死後
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「全ドイツ労働者協会」の記事における「ラッサールの死後」の解説
1864年8月31日、ラッサールは恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。ラッサールは遺言で反ファールタイヒ派のフランクフルト支部長ベルンハルト・ベッカー(ドイツ語版)を全ドイツ労働者協会の後継者に選ぶよう協会に推薦しており、1864年11月にはベッカーが後継の会長に選出された。 ラッサール死後の協会の方針について、ラッサールの一番の親友であるハッツフェルト伯爵夫人ゾフィー(ドイツ語版)は、ラッサールの語った一言一句を大事にしてラッサールが死んだときの軌道をそのまま維持すべきことを唱えた。一方ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー(ドイツ語版)は、ラッサールのプロレタリア運動を強化したいという精神を大事にすべきで、その実現のため必要とあればラッサールの個々の言葉や方針は放棄する事も認められるべきと考え、ラッサールのライバルのマルクスやエンゲルス、リープクネヒトとも一定の接触を持った。また彼は協会機関紙として『社会民主主義者(ドイツ語版)』紙を発行することによって、ラッサールの死後の協会の理論的独裁権を握るようになった。 伯爵夫人とシュヴァイツァーの対立で党内の混乱が続き、1865年11月30日の総会ではカール・ヴィルヘルム・テルケ(ドイツ語版)が新しい会長に選出され、ついで1866年6月17日のライプツィヒでの第3回総会ではアウグスト・ペアル(ドイツ語版)が会長に選出された。 しかしやがてシュヴァイツァーの独裁的な指導が必要との認識が党内に広まり、1867年5月にブラウンシュヴァイクで開かれた臨時総会でシュヴァイツァーが会長に選出された。これに反発したハッツフェルト伯爵夫人は6月にも協会員の約6分の1を引き連れて分党し、ラッサール派全ドイツ労働者協会(ドイツ語版)(LADAV)を創設した。 全ドイツ労働者協会は1867年8月の北ドイツ連邦の帝国議会選挙(ドイツ語版)に出馬し、2議席を獲得し、シュヴァイツァーは帝国議会議員となった。しかし1871年3月3日のドイツ帝国の帝国議会選挙(ドイツ語版)では、1議席も取れない敗北を喫した。シュヴァイツァーは議会活動により確保してきた党内での優越的地位を失う形となり、直後の3月24日に会長を辞職した。7月1日にはウィルヘルム・ハーゼンクレーヴァー(ドイツ語版)が新たな会長に就任した。
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