中央体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 04:42 UTC 版)
信長は尾張統一時代から自らに権力を集中する体制を築いていた。信長の下に連枝衆(織田信広、織田信包ら一族)、家老衆、馬廻衆、吏僚衆、近臣衆、武将衆と言った具合である。これらの内、近臣衆と馬廻衆は信長から見出された人材が就任するケースが大半で、尾張時代にこの地位にあった原田直政、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益らはいずれも大名に出世している。武将衆では譜代と外様に分かれており、譜代に柴田勝家、佐久間信盛、森可成らが、外様には西美濃三人衆や佐治為興、水野信元らがおり、信長は外様統制の一環として婚姻策を用いている。 この体制は美濃に進出すると組織が肥大化し、また美濃支配と共に優秀な人材が増加したため、馬廻衆とは別に小姓衆も組織化され、この組織には嫡男以外の男子、すなわち前田利家、佐脇良之、万見重元らが所属した。彼らは信長の側近として権勢を振るう一方、取次や側近としての役割を果たし、年齢が長じては大名などのエリートコースも約束されていた。 信長が上洛を果たし、畿内を支配下に置いて政権の体制を成すと、旧政権の三好政権や室町幕府からの人材として明智光秀、松永久秀、荒木村重、細川藤孝らが加わり、またそれによってさらに組織が肥大化し、特に信長の権力が強大化したため、信長の吏僚衆・近臣衆だけでも右筆・同朋衆、奉行衆(側近)、奉公衆(代官)に分かれる事になった。 信長が嫡子・信忠に家督を譲ると、織田家の当主となった信忠には信長とは別の組織が付属され、家老衆に河尻秀隆、側近衆に前田玄以らが付属されている。
※この「中央体制」の解説は、「織田政権」の解説の一部です。
「中央体制」を含む「織田政権」の記事については、「織田政権」の概要を参照ください。
- 中央体制のページへのリンク