中央公園が出来るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 02:26 UTC 版)
「広島市中央公園」の記事における「中央公園が出来るまで」の解説
江戸時代には、武家屋敷が広がり、明治以降は陸軍第5師団が置かれたが、1945年の原爆投下により爆心地近く(軍用地のほぼ全域が爆心地より1.5km以内)に位置していたため壊滅、軍用地は撤去された。 1946年(昭和21年)11月1日、戦告237号により70.48haが『中央公園』として、都市計画公園として指定。当時の計画では、原爆ドームのある近辺や基町のアパート群周辺も中央公園用地とされていた。また、丹下健三が設計した広島平和記念公園の1951年(昭和26年)当時の計画では、当公園のほか、基町中層アパート群や市営基町高層アパートのあたりも、平和公園として整備する構想があった。1951年(昭和26年)8月6日に発表された「広島平和記念都市建設計画についての意見書」で、中央公園用地については正式に、平和祈念施設建設用地から外された。その後の計画で、中央公園は58.76haに変更された。 しかし実際は、戦後の住宅不足を解消するために、公営の住宅が1949年(昭和24年)までに市・県・住宅営団などが1815戸建築。さらに原爆で住む家を失った被災者たちが本川東岸を中心とする地区に流入して次々にバラック住宅を建築、いわゆる原爆スラム(通称「相生通り」)が形成された。1955年(昭和30年)5月の広島市長選で、中央公園を縮小して住宅建設をする公約を出した渡辺忠雄が当選。1956年(昭和31年)11月には、基町にアパートを1,894戸建築することを決定。公園用地は、さらに16ha減らされた。当初は中層アパートを整備する計画だったが、1968年の基町地区再開発計画(基町再開発事業)より、高層アパート計画に変更。1978年に再開発が完了した。詳細は原爆スラム・市営基町高層アパートを確認のこと。1980年年代初頭に太田川基町護岸が整備される。 「中央公園(史跡広島城跡二の丸周辺)」で平成7年度手づくり郷土賞(歴史・文化部門)受賞のほか、日本の歴史公園100選および都市景観100選に選定されている。
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