第一線から退く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 15:43 UTC 版)
横田は第1回、第2回の全国争覇競輪を優勝してから程なくして第一線から退くことになった。その後は競輪選手でありながらも、1951年に日本プロサイクリスト連合の常務理事に就いたこともあり、以後は裏方に徹することになった。 特に鳴尾事件がきっかけとなって、競輪の廃止が国会でも取りざたされたとき、横田は競輪側の代表に立って国会の委員会に出席するなどして競輪の存続を訴えた。 また、日本競輪選手会第2代理事長(1957年 - 1962年。なお、日本競輪選手会ホームページでは横田が初代理事長とされている)、世界自転車選手権・日本代表の監督(1959年)も歴任した。 1967年8月5日、登録消除。1980年6月30日、死去。
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