内閣成立
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「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「内閣成立」の解説
1933年12月30日、前首相のドゥカが鉄衛団のメンバーによって暗殺されたため、1934年1月にタタレスクが首相に就任した(正式な移行まで5日間はコンスタンティン・アンジェレスク(ルーマニア語版)が首相職を代行した)。タタレスク内閣はカロル2世の治世下で成立した2つめの国民自由党の内閣であった。主流派からの支援を受ける試みが失敗したことで、カロル2世と若年保守派との繋がりは強固になり、王室独裁の成立の支援につながった。彼はまた、国民自由党高官とブカレスト市長デメトル・イオン・ドブレスク(ルーマニア語版)の闘争を止めるために、自身の権力を利用して、1934年1月18日にドブレスクを罷免した。 就任後しばらくは、世界恐慌からもたらされた経済危機のために、経済政策を中心におこない、未だ世界恐慌の影響は残っていたものの、それまでを超える勢いで経済成長が進んだ。これには、彼が推進した新たな経済関係が寄与したと言える。彼は、国を構成する州それ自体を経済活動の主たる仲介人に変化させ、営利事業を行うことを許可した。やがて、州にはアリスティド・ブランクやニコラエ・マラクサ(ルーマニア語版)、マックス・アウシュニット(英語版)のような有力な実業家が支配するカマリリャ(英語版)が形成されるようになった。この過程で、タタレスクがカロル2世にへつらう立場であるらしい、ということが頻繁に彼をあざ笑う話題として持ち出されるようになった。以下に、敵対関係であった社会主義者ペトル・パンドレアの発言を引用する。 「タタレスクは自身の卑しい本性を隠すために堅苦しい人物像を見せていた。彼が(王と共に)公衆の面前を離れたとき、腰を前に出して、顔を後ろに見せて、デスクから扉まで、わざわざ背中を見せることをしなかった。(略)その様子を見て(略)、カロル2世は自身の個人的な補佐に叫んだ、私はどんな奴であれ政治家にキスさせるような尻は持ち合わせていない、と。」 タタレスクは、カロル2世と彼の弟のニコラエ・アル・ロムニエイの闘争にも介入し、ニコラエに対して、カロル2世が不釣り合いだと考えておりルーマニア政府からも認可されていないヨアナ・ドゥミトレスク=ドレッティとの結婚か、自身の王権かのどちらかを放棄するよう促す手紙を送った。ニコラエは1937年に後者を選択した。 タタレスクは、党の統一を確実にするための妥協として、左派を中心に選ばれたコンスタンティン・I・C・ブラティアヌ(ルーマニア語版)に敗北。この話題は、その後2年間にわたって議論された。1936年の党大会にて、タタレスクは党内で2番目のポジションである第一秘書に選出された。
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