カロル2世の治世
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「アルマンド・カリネスク」の記事における「カロル2世の治世」の解説
フランスとイギリスの同盟を支持し、ルーマニア国内における鉄衛団の活動に反対するカリネスクは、カロル2世の鉄衛団迫害の動きを支持していた。当時彼は、国民農民党の党首が鉄衛団との選挙協定を結んでいたことで、国民農民党の党首と対立していた。1937年の選挙の後に、彼は内務大臣(英語版)として、キリスト教国民党(英語版)を率いたオクタヴィアン・ゴガ(英語版)の内閣に入ったことで国民農民党に対して一層反抗し、その後すぐに彼は国民農民党から追放された。 カリネスクは鉄衛団と対峙する覚悟を決めるようになった。1938年5月の選挙が準備されていく一方で、彼は鉄衛団のプロパガンダの制限へと歩を進め、鉄衛団と繋がっていた出版社の閉鎖を行った(これにはプロパガンダ制限に動く政権の活動と、それに対抗した鉄衛団との間の武力闘争が影響していた)。 カリネスクは1937年にカロル2世による王室独裁が開始されるまで内務大臣を務め、その後はミロン・クリスティヤ(英語版)首相の下で副首相を務めた。歴史研究家のジョゼフ・ロスチャイルドによると、カリネスクは政府内でも大きな権力を握っていたという。また、彼は1938年12月にルーマニア王国唯一の政党として新たに結成された国家復興戦線(英語版)の創立メンバーの一人で、カロル2世と非常に近しい間柄であるとよく見られた。一方で彼は歴史研究家のニコラエ・ヨルガ(英語版)との論争にも関わるようになっていった。ヨルガは、カロル2世が社会学者やルーマニア・アカデミーの会員に対して異なる様々な制服を着用することを定めた法律を制定したことに対し、厳しく批判する書籍を発行していた。ヨルガは皮肉を込めて「私は国家復興戦線の制服を決める覚悟を決めている。だが私はあのピッケルハウベだけは被りたくない。なぜって、あれは内務大臣を務める者が被るか串刺しをするためのものだからだよ」と述べた。後にヨルガは政府からの熱い要望によって、彼らを支援する側に回った。 1938年5月、ナチス・ドイツによるアンシュルスを知ったカリネスクは、コルネリウ・コドレアヌを始めとする鉄衛団の指導陣や党員、さらにはその支持者(ナエ・イオネスク(英語版)やミルチャ・エリアーデなどが有名)の逮捕や処刑に動き出した。コドレアヌら鉄衛団指導者は、「脱走を図ったことによる死刑」と称して合計300人以上が処刑され、その他の党員に対しても、離党宣言の署名を強制させた。逮捕を逃れたホリア・シマなどの鉄衛団指導者は、その多くがドイツへと亡命した。 1939年3月7日に、当時厚生大臣(英語版)と教育大臣(英語版)を務めていたカリネスクは、クリスティヤが死亡したことで首相に就任した。当時、彼が鉄衛団の興隆の阻止やドイツが起こしかねない戦争からの中立保持を行ってくれると考えられていたのが理由の一つであった。とはいうものの、彼はクリスティヤが病床に就いた2月ごろから実質的に首相の権利を保有していた。同時に、彼は内務大臣(英語版)と防衛大臣(英語版)にも就任した。同年9月、ナチス・ドイツによってポーランド侵攻が開始。その際に、鉄衛団の党員は「カリネスクとカロル2世はイギリス秘密情報部と共謀してプラホヴァにある油田を爆破し、ドイツが石油を利用できないようにしようと計画している」と強く主張した。カリネスクは、ポーランド亡命政府とポーランド国民に対してルーマニア国内への亡命を許可し、ルーマニア国内の鉄道会社に対して、ポーランド国内の重要文化財の保護を目的に文化財をルーマニアへ移送させ、後にそれらの文化財はコンスタンツァ港からイギリスへと輸送、この行為に対してナチス・ドイツは非常に憤慨していた。
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