シュライヒャーにより退陣させられる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:56 UTC 版)
「フランツ・フォン・パーペン」の記事における「シュライヒャーにより退陣させられる」の解説
ナチ党は共産党の起こしたストライキへの参加やブルジョア的なパーペン内閣への激しい攻撃などにより財界やナチ党員がかなり離反し、選挙資金を確保できなかった。結果、11月6日に行われた総選挙では、ナチ党は第一党は確保したものの得票率33.1%、196議席に後退した。社民党も得票率20.4%、121議席に後退した。しかしパーペンが最も嫌う共産党が100議席に伸ばしてしまった。 ナチ党が議席を落としたことでヒトラーが要求を下げるかもしれないという望みをかけてパーペンは、11月9日にヒトラーに副首相就任を再度要請したが、ヒトラーは拒否した。11月15日にも再度副首相就任要請の手紙をヒトラーに送ったが、翌16日の返信でヒトラーはこれを拒否した。パーペンを見限ったシュライヒャーは、政党間交渉をしやすくするためとして後の交渉はヒンデンブルクに任せ、パーペンに内閣総辞職を求めた。11月17日にパーペン内閣は形式的に内閣総辞職して暫定事務処理内閣に移行した。しかしパーペンはいずれヒンデンブルクから再度組閣の命令が来ると信じていた。11月18日から24日にかけてヒンデンブルクやマイスナーなど大統領府とヒトラーの交渉が行われたが、やはり平行線に終わった。 12月1日午後6時、ヒンデンブルク大統領はパーペンとシュライヒャーを招集した。パーペンは数か月前から立てていた憲法違反のクーデタ計画をヒンデンブルクに提案した。国軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する計画であった。しかしパーペンを失脚させたがっていたシュライヒャーはこの計画に反対した。シュライヒャーは自分が首相に就任し、ナチ党の一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張した。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは頑として国軍のクーデタへの参加を拒否した。 つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーが首相に就任することになり、パーペン内閣は退陣することになった。 しかしヒンデンブルクから気に入られていたパーペンは、大統領仮官邸(大統領官邸は当時改修中だった)の近くに宿を取って暮らし、辞職後も足繁く大統領の下に通った。
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