1932年夏の総選挙で国会第一党に躍進
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1932年夏の総選挙で国会第一党に躍進」の解説
1932年4月24日のプロイセン州州議会選挙は、直前に中央政府首相ブリューニングと社民党のプロイセン州首相オットー・ブラウンらが計略によって突撃隊と親衛隊の禁止命令を出したため、ナチ党にとっては官憲の弾圧の中での選挙戦となったが、ナチ党は9議席から一気に162議席に伸ばし、プロイセン州議会の第一党となった。これをもってプロイセン州におけるブラウンの左翼政治の基盤は崩れさった。 勢いに乗るヒトラーは、4月28日と5月3日に大統領側近クルト・フォン・シュライヒャー中将と会談。シュライヒャーは自分は突撃隊禁止命令に反対していたと弁明するとともに突撃隊禁止令制定を推進した国防相ヴィルヘルム・グレーナーと首相ブリューニングを失脚させる計画をヒトラーに打ち明けた。そして次期内閣下で突撃隊禁止命令を解き、国会も解散するのでそれまで次期内閣への攻撃を控えるという密約をヒトラーとの間に結んだ。二人の会談についてゲッベルスは「話し合いはうまくいった」と書いている。 密約に基づき、シュライヒャーは5月13日にグレーナー国防相、5月30日にはブリューニング首相を失脚に追い込んで内閣を崩壊させた。そして6月1日にはシュライヒャーが推薦した保守派のフランツ・フォン・パーペンが首相に就任。パーペンとシュライヒャーは密約通り6月4日にも国会を解散し、6月16日には突撃隊禁止命令を解除した。しかし貴族ばかりで構成されたパーペン内閣は「男爵内閣」と呼ばれ、著しい不人気を示したため、ナチ党は密約を結びながらパーペンから離反し始めた。ゲッベルスも日記の中で「このブルジョワ的な与太者内閣との厄介な隣人関係からできるだけ早く逃げださなければならない。さもないと我が党は取り返しのつかないことになる」と危機感を露わにしている。 国会が解散されたことで選挙戦が始まったが、パーペン内閣を表立って批判するわけにはいかなかったナチ党としては新しい選挙戦術を考えねばならなかった。ゲッベルスが考え出した解決方法はこの選挙をヴァイマル共和政全歴史への審判とすることだった。彼は「この国会選挙ではパーペン内閣の政策ではなく、1918年11月の犯罪の責任を問い、さらにその時から今日まで現体制を存続させ、今世紀最大の歴史的崩壊の責任を負わねばならない政府や政党の行動について審判が下されるであろう」と述べている。 しかし結局彼は7月9日にルストガルテンで10万人の聴衆を前に行った演説でパーペン批判に踏み切った。「私はドイツ人に要求する。過去15年間の恥辱と汚名をよく考えてほしい。1920年の政治的屈辱を思い出したまえ。この数週間で何か変化があっただろうか。まったくない。閣僚の顔触れが変わっただけだ。経済状態も相変わらずだ。新政府はまだ労働政策に取り組まない。悲惨は極まり、飢えた人々は当てもなくさまよっている」。 選挙戦中ゲッベルスは党のプロパガンダ組織と弁士をフル回転させた。日記の中でその忙しさを次のように語っている。「我々はドイツ中を汽車、自動車、飛行機でくまなく駆け巡った。集会が始まるわずか30分前の到着はざらで、間に合わなかった時もしばしばだった。我々は演壇に足を掛けるやいなや話し始めるのだ」。 7月31日に行われた投票の結果、ナチ党は608議席中230議席(得票数1373万票〔得票率37.4パーセント〕)を獲得し、社民党を抜いて国会第1党となった。ドイツの歴史においてこれほどの得票率と議席を獲得した党はかつて存在したことがなかった。ゲッベルスは政権獲得の時が来たと判断した。
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