1932年春の大統領選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:12 UTC 版)
「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1932年春の大統領選挙」の解説
1932年に入るとヒンデンブルクの任期切れから大統領選が注目を集めるようになった。現役大統領ヒンデンブルクに勝てる見込みは薄く、またヒンデンブルクとの関係を悪化させたくなかったためヒトラーは当初出馬をためらったが、ゲッベルスが党の運動を盛り上がらせるチャンスであるとヒトラーを説得した結果、1932年2月19日になってヒトラーは出馬を決意し、ゲッベルスに出馬表明発表を任せた。ゲッベルスは2月22日のスポーツ宮殿での演説でそれを発表した。その時のことをゲッベルスは日記の中で次のように書いている。「一時間かけて私は聴衆を盛り上げた。それからフューラー(ヒトラー)の出馬表明を読み上げた。聴衆が興奮して熱狂状態になり、歓声は十分間も続いた。フューラーに対する熱烈な歓迎ぶりである。聴衆は歓喜のあまり皆席から立ち上がった。天井が今にも落ちるのではないかと思われた。なんとも恐れ入る光景だった」。 大統領選挙においてゲッベルスはポスターに特に注意を払ったといい、「ポスターに入れる効果的な単語を選ぶのに3日をふいにするのはしょっちゅうだった」と述べている。またこれまでと同じく党弁士の演説を主力とし、ゲッベルス自身も一晩に3つの会場で演説をこなすことはざらだったという。 3月13日の第一次選挙は、ヒンデンブルク1865万、ヒトラー1133万票という結果に終わった。ヒンデンブルクが過半数を取れなかったため第二次選挙が行われる見通しとなった。この結果を聞いたゲッベルスはヒトラーから敗北の責任を追及されることを恐れ、ミュンヘンのヒトラーに電話して第二次選挙への出馬を止めることを進言したが、ヒトラーはひるまず第二次選挙にも出る決意だった。 第二次選挙にあたってゲッベルスは「現代的な方法のみが我らを勝利に導く」として、ヒトラーのために飛行機をチャーターし、それによってヒトラーの演説する範囲や回数を増やした。選りすぐりの党機関紙記者をヒトラーの側につかせ、従軍記者スタイルで記事を書かせた。そしてそれを「ヒトラー、ドイツ全土に姿を現す」と報じさせて衆目を集めた。 ゲッベルスは最後まで奮闘したが、4月10日の第二次選挙の結果はヒンデンブルク1939万票に対してヒトラー1341万票であり、差を若干縮めたもののやはり敗北に終わった。とはいえヒンデンブルクを相手にこれだけの票をもぎ取るのは驚異的であり、ヒトラーとナチ党の人気がうなぎ上りであることを世に知らしめるには十分な成果だった。
※この「1932年春の大統領選挙」の解説は、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の解説の一部です。
「1932年春の大統領選挙」を含む「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事については、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の概要を参照ください。
- 1932年春の大統領選挙のページへのリンク