バイエルン人民党政権 (1920年-1933年)
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「バイエルン人民党」の記事における「バイエルン人民党政権 (1920年-1933年)」の解説
1920年3月にカップ一揆の余波でバイエルンでも右派の無血クーデタが起きてホフマン政権は打倒された。その後バイエルン人民党の政治家グスタフ・フォン・カールがバイエルン首相に就任。以降バイエルンでは「秩序細胞バイエルン(Ordnungszelle Bayern)」と呼ばれるバイエルン人民党員を首相とする保守政権が続き、バイエルン人民党が歴代政権を支えていくことになる。また中央政府においても1922年に社民党が政権から離脱した後の中央党を中心としたブルジョワ政党連立政権に参加することが多かった。 1920年9月18日にバンベルク綱領を制定した。その綱領の中でバイエルン人民党はバイエルンが外国と条約を結ぶ権利やヴァイマル憲法に拘束されずに国家形態を自由に決定できる権利(王政復古などの自由)を要求している。 1923年秋に中央政府がルール地方でのフランス軍に対する消極的抵抗を停止したが、バイエルン人民党のバイエルン州首相オイゲン・フォン・クニリングはそれに反対して非常事態宣言を発令し、カールを州総督に任命して独裁権を与えた。しかし国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)によるミュンヘン一揆が起き、カールは辞職、一揆の事後収拾をめぐって党内で不満が高まっていたクニリングも1924年に辞職することになった。バイエルン人民党は代わりに党の州議員団長であるハインリヒ・ヘルトを州首相に選出した。以降ヴァイマル共和政が終わるまでの9年間、ヘルトがバイエルン人民党を与党としながら州首相を務めることになる。 1925年の大統領選挙の第1次選挙にはヘルトが出馬したが、バイエルン外に支持が広がらず3.7%の得票しか得られなかった。第二次投票では中央党の候補で敬虔なカトリックだったヴィルヘルム・マルクスを推さずにプロテスタントのプロイセン元帥パウル・フォン・ヒンデンブルクを推した。これは中央党が社民党と組んでいたことに対する嫌悪感だった。ただカトリック聖職者には党のこの決定に反発する者が多く、地方司祭にそそのかされてマルクスへ投票するバイエルン人民党員が多数出た。全体としてはバイエルン人民党員はヒンデンブルクに投票した者の方が多かったが、棄権率も高かった。これは聖職者と党の対立に困惑した者と思われる。 バイエルン州議会ではバイエルン人民党が常に第一党を占めていたものの、単独過半数は取れず、そのため1930年7月に連立を組んでいたバイエルン農民・中産階級同盟(ドイツ語版)が屠殺税に反対して政権から離脱するとヘルト内閣は州議会で過半数を有していない少数政権になった。 1932年春の大統領選挙の際にはバイエルン人民党党首フリッツ・シェッファー(ドイツ語版)は、中央党のハインリヒ・ブリューニングに出馬を求めたが、ブリューニングはヒンデンブルクに恩義を感じていたのでこの案は実現せず、結局バイエルン人民党はヒンデンブルクを支持することになった。 その直後の1932年4月24日の州議会選挙(ドイツ語版)でバイエルン人民党は得票率32.6%を得て45議席を獲得して第一党を維持したが、ナチ党が32.5%の得票を得て43議席を獲得する躍進をした。バイエルン農民・中産階級同盟は9議席に減り、社民党も20議席に減った。1930年以降「事務管理」内閣(少数派政権)として続いていたヘルト内閣としてはナチ党と社民党どちらかと連立を組めば州議会内の多数派形成ができたが、ヘルトや党内多数派はどちらとも連立を組みたがらなかった。一方党首シェッファーは社民党との連立を希望したため、ヘルトとシェッファーの関係が緊張した。結局ヘルト政権は少数派政権を維持することになった。 中央政府との関係ではバイエルン人民党は1930年以来ヒンデンブルク大統領とブリューニング首相の大統領内閣を支持してきたが、1932年5月末にブリューニングが罷免され、6月にフランツ・フォン・パーペンが首相に就任すると突撃隊禁止令解除やプロイセン・クーデタ(ドイツ語版)などをめぐってパーペン政権と対立を深めた(バイエルン人民党は突撃隊禁止解除に反対し、またプロイセン・クーデタについては邦の独立性侵害と見做してバイエルン政府として国事裁判所(ドイツ語版)への提訴を行った)。
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