バイエルン問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)
「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「バイエルン問題」の解説
マクシミリアンは、1489年2月にネーデルランドを離れ、同年4月にドイツ南部のウルムを訪れ、妹クニグンデの婿でバイエルン公アルブレヒト4世の一件の解決を図ろうとする。 1488年2月、野心家のアルブレヒト4世に対し、シュヴァーベン地方の諸都市や領主らがシュヴァーベン同盟を結成し、翌1489年春時点では、さらに両者の関係が悪化していたのだった。そこでマクシミリアンは、4月にウルムで義弟となったアルブレヒト4世と対面し、5月には妹クニグンデと11年ぶりに再会を果たす。フリードリヒ3世が2人の結婚に今も憤慨するのに対し、マクシミリアンは容認した。またシュヴァーベン同盟各都市とも根強く対話を続け、両者の調停に成功する。こうして、ローマ王としての名声は一層高まった。 さらに、アルブレヒト4世とチロル領主ジークムント大公の間に、ジークムントが領地を抵当にアルブレヒト4世から莫大な借金をしながらも返済しないことが原因で紛争が起こっていた。マクシミリアンはシュヴァーベン同様、根気よく交渉にあたった。最終的に、1490年3月、州議会において、抵当にされたチロルおよびフォアラントがハプスブルク家に帰属するとともに、マクシミリアンがチロル伯位を借金ごと継承し、紛争は和解した マクシミリアンはアルプスに囲まれた街インスブルックに都を置き、借金を返済のための経済改革に着手した。当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延し、ジークムント自身も放蕩の限りを尽くしていた。マクシミリアンは6年間でチロルの腐敗を一掃し、借金を返済した。その手助けをしたのが商人たちで、中でもフッガー家のヤーコプ・フッガーには銀の採掘権を与えた。引き換えに莫大な収益を上げ、そこから惜しみなく芸術へつぎ込まれた。また、チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てた。
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