バイエルン侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 23:04 UTC 版)
「ブレンハイムの戦い」の記事における「バイエルン侵攻」の解説
フランス・バイエルン連合軍はラウンスハイム北東のディリンゲンに陣取っていたが、イングランド・帝国軍はここを素通りしてさらに東のドナウヴェルトを占拠することにした。ここを占拠すればドナウ川以北の帝国諸侯からの援助を見込める他、ウィーンとの連絡も取れるからである。 7月2日にドナウヴェルトを陥とすため、まず北のシェレンベルクという丘を攻撃した(シェレンベルクの戦い)。イングランド側の死傷者が6000に上るほどの激戦だったが、シェレンベルクを占領したことでドナウヴェルトも放棄され、フランス・バイエルン連合軍はディリンゲンからアウクスブルクまで撤退、ウィーンまでのドナウ川上流は帝国側に渡った。 マールバラ公はドナウヴェルトからバイエルンに侵攻、村々から略奪を繰り返してバイエルンを荒らし回りマクシミリアン2世をフランスから叛意させようと図ったが、タラールが援軍を送ったことでマクシミリアン2世との交渉は決裂、アウクスブルク攻略や再度のバイエルン略奪を敢行した後にディリンゲンとドナウヴェルトの間に位置するヘヒシュテットに戻った。 一方、ライン川のフランス軍にも動きがあり、7月1日にタラールがドナウ川の連合軍と合流するため、ヴィルロワに3万を残して自分は残り半分を連れてストラスブールからライン川を渡ったが、同じくドナウ川方面に進んだオイゲンの妨害で進軍が遅れ、8月5日にアウクスブルクのフランス・バイエルン連合軍と合流、翌日の6日にオイゲンもヘヒシュテットのイングランド・帝国同盟軍と合流した。 イングランド側はルートヴィヒ・ヴィルヘルムが1万5000の軍勢で残るドナウ川沿岸のインゴルシュタットを落とすため東へ移動、マールバラ公・オイゲンは5万2000の軍勢でヘヒシュテットでフランス・バイエルン軍を牽制する役目を引き受けた。フランス側はタラールが持久戦を主張したが、マクシミリアン2世に退けられて決戦に向かい、10日にイングランド・帝国軍はフランス軍接近に気付くとヘヒシュテットからミュンスターに後退、12日にフランス・バイエルン軍はヘヒシュテット近郊のブレンハイムで布陣を敷いた。その隙にイングランド・帝国軍は翌13日、深夜の内にミュンスターからブレンハイムへ移動、早朝に戦場に到着した。 戦場にはドナウ川の支流ネーベル川が流れ、イングランド・帝国軍が北、フランス・バイエルン軍が南に対峙した。南岸の左手には広大な森に覆われたルッツィンゲン、中央にオーベルグラウ、右でネーベル川とドナウ川の合流地点にブレンハイムという村があった。フランス軍はこの3つの村を拠点にしてイングランド・帝国軍を迎え撃った。対するイングランド・帝国軍はブレンハイム・オーベルグラウを攻撃してフランス軍を村に釘付けにして動きを封じ、手薄になった中央を叩く作戦に決め、マールバラ公が総指揮を執ることになった。 フランス・バイエルン軍は左翼をマクシミリアン2世とマルサンの2万3000が、中央はタラールの3万5000、右翼はクレランボー侯がブレンハイムに布陣した。イングランド・帝国軍は左翼はカッツ卿が担当、中央はマールバラ公が3万8000で待機、右翼はオイゲンが1万8000で布陣した。
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