1932年冬の党勢停滞
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1932年冬の党勢停滞」の解説
ヒトラーも首相ポストを要求するようになったが、パーペンやヒンデンブルクは副首相に甘んじるよう要求したため決裂。しかも政府は8月13日のヒンデンブルクとヒトラーの会談について、ヒトラーが横っ面をはられっぱなしだったように読める内容の内閣発表を出してヒトラーに恥をかかせた。ゲッベルスは専門の宣伝分野で恥をかかされたことに激怒し、すぐに反駁を行ったものの手遅れだった。この件で党の受けた打撃は深かった。ヒンデンブルクやパーペンに腹を立てたヒトラーは、招集されたばかりの9月12日の国会で共産党が提出したパーペン内閣不信任案にナチ党議員団を賛成に回らせて可決させ、国会はただちに解散されることになった。 この選挙戦においてナチ党は全面的なパーペン批判を展開した。パーペン政権を「ブルジョワ的与太者」「腐敗した貴族のクラブの政体」と非難した。ヒトラーが公式に掲げたスローガンも「反動反対」であった。だがこのような共産党張りの選挙戦術は保守層からは白眼視され、保守層は他の保守政党国家人民党や人民党に支持を戻し始めた。それに比例して党に寄せられた寄付金もこれまでになく渋い額となった。それでなくても度重なる選挙戦によりナチ党の財政は破たん状態になっており、まともな選挙運動が打てなくなっていた。9月16日のゲッベルスの日記には次のようにある。「選挙キャンペーンはますます困難になっていくだろう。党金庫はすでに空っぽだ。前の選挙で我々の蓄えはすっかりなくなってしまった。」「敵も我々が息切れするのを待っている」。ゲッベルスは金策のために集会の数を減らしたり、討論という形にして他党の集会に相乗りするなど節約に努めざるを得なくなった。 またヒンデンブルクから首相任命を拒否されたことが知れ渡っていたのでナチ党への期待感も薄まっていた。その現象についてゲッベルスは後にこう書いている。「その前の選挙で票を入れた人たちは党が権力に付けばすぐにもお返しがあると思い込んでいた。ところが党はそれまでより権力から遠のいたように見えたので離れていった」 選挙の直前の11月初めにおこったベルリン市交通局(ドイツ語版)労働者のストライキにゲッベルスはナチ党員を参加させた。ゲッベルスは共産党とも協力してこのストライキを大ストライキにしてベルリンの交通網を完全にマヒさせた。保守層からの得票減退が確実だったので代わりに労働者票を多く獲得しようというゲッベルスの戦術だった。ヒトラーはこれに困惑していたものの、正式な反対はしなかった。だがこの一件は逆にナチ党への得票を一層減らしただろうと見られている。 11月6日の国会選挙でナチ党は前回選挙に比べ200万票減らして36議席を失い、196議席(得票数1174万票〔得票率33.1パーセント〕)に減退した(ただし第1党の地位は保った)。これについてゲッベルスは言い訳がましいことは口にせず、同日の日記に「我々はやっつけられた」と書き、さらに11月11日には「党の財政報告書は絶望的だ。借金と債務だけ。それもこの敗北の後では大量の資金調達は不可能」と書いている。 ナチ党の金欠は続き、地方議会選挙でもまともな選挙運動はできなかった。12月初旬のテューリンゲン州議会選挙では前回に比べて40%もの得票を失った。これについてゲッベルスは「情勢は破局的だ」と書いている。後にゲッベルスが白状したところによるとこの頃彼はナチ党は瓦解するのではないかと考えていたという。
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