1932年ロサンゼルスオリンピックでの「美談」
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「竹中正一郎」の記事における「1932年ロサンゼルスオリンピックでの「美談」」の解説
1932年ロサンゼルスオリンピックの5000メートルでは、首位争いの選手ら(ラウリ・レーティネンとラルフ・ヒル(英語版))にトラック内で追い付かれた際にインコース(コースの内側)を譲ったとされ、そのスポーツマンシップは高い称賛を受けた。優勝したレーティネンが進路妨害と見なされる行為を行って(ただし失格とはならなかった)ブーイングを浴びたこととも対比的に扱われた。翌日の現地紙は「10万人の観衆の心に残るのは小さな勇者19歳のタケナカである」と記し、わざわざ走路を不利な外側に移動した謙虚さと、最後まで走った敢闘精神をたたえた。日米関係がぎくしゃくした中で開催されたこの大会において、アメリカ人を感銘させる日本選手の「美談」であり、アメリカでの反応が日本でも報道されて広く知られることとなった。体協の役員たちは「国際親善」に寄与した「無冠の大使」として竹中を称えた。第二次世界大戦後にも、走路を譲りながら完走したエピソードは国語教科書(昭和35年三省堂刊小学校4年生用国語教科書「オリンピックの心」)に採用された。 もっともこの「美談」が流布し、競技に大敗したにもかかわらず賛辞が浴びせられたことは、竹中にとって不本意なものであった。大会後、関係者には「あんなことで褒められるよりは、せめて6着でもいいから入賞したかった」とこぼしたという。インコースを「譲った」とされるのも疲労困憊した中での無意識的なことであり、後年、竹中は「美談でも何でもない、コースを譲ったことは覚えていない」「ふらふらになってゴールする醜悪な写真を載せられるのは不愉快」とも述べるなど、作り上げられた「美談」を生涯にわたって否定し続けることとなった。
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