1932年から1933年の飢饉の証拠写真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 18:50 UTC 版)
「アレキサンダー・ウィーナーベルガー」の記事における「1932年から1933年の飢饉の証拠写真」の解説
当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都ハリコフに住み、ウィーナーベルガーは大規模な飢饉を目撃し、NKVDによる逮捕の恐れを感じつつ街中の光景を撮影した。 ハリコフ滞在中に、ホロドモール時のハリコフの街を約100枚ほど密かに写真撮影した。彼の写真には、食料品店に並ぶ空腹の人々の列、飢えた子供たち、ハリコフの街中で餓死した人々の遺体、大量の餓死者の墓などが写っている。この技術者はドイツのライカカメラを使って写真を撮ったが、これは海外の友人から譲り受けたものと考えられる。 1934年にオーストリアに向けて出発したウィーナーベルガーは、オーストリア大使館の援助を得て外交文書でネガを送った。オーストリアの外交官は、国境で所持品検査を受ける可能性が高く、写真が発見された場合は彼の命が危険なため、このような慎重な措置をとるよう主張した。ウィーンに戻った後、テオドール・イニッツァー枢機卿に写真を手渡し、イニッツァー枢機卿は、国際委員会事務総長のエヴァルト・アンメンデ及び国際連盟に写真を贈った。 1934年、オーストリアの祖国戦線は、「Rußland, wie es wirklich ist」(ロシアの素顔)と題した小さな冊子にウィーナーベルガーによる写真を掲載したが、出所明示はしなかった。 ウィーナーベルガーによる写真は、1935年にエヴァルト・アンメンデの「ロシアは飢えるべきか」(Muss Russland Hungern)という本に掲載されたことで初めて一般に公開された。撮影者の安全を考慮して、写真の出所は明示されなかった。1939年、オーストリアでソビエト連邦での生活についての回顧録を出版したが、その中の2つの章はホロドモールをテーマにした。写真は1942年に出版された回顧録にも含まれている。 1944年、ウィーナーベルガーはロシア解放軍の連絡将校を務めた。戦後、ソ連軍への転属を回避し、アメリカ占領区のザルツブルクで1955年に亡くなった。 現在、ウィーナーベルガーの写真は他にも多くの作品で再出版されており、特にウィニペグのカナダ人権博物館に展示されている。
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