財務相に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:11 UTC 版)
「ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク」の記事における「財務相に就任」の解説
パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣として1932年6月1日に成立したフランツ・フォン・パーペン内閣に財務大臣として入閣した。ヒンデンブルク大統領の個人的要請を受けての入閣だった。以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までドイツの財務大臣の地位を保持し続けることになる。 1932年6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、クロージクは、首相パーペン、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルト(ドイツ語版)らとともに同会議に出席した。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された。 首相パーペンと内閣の最大の実力者クルト・フォン・シュライヒャー国防相が対立を深めると1932年12月2日の閣議でクロージクは外相ノイラートとともにシュライヒャー断固支持を表明し、パーペンの失脚に一役買った。12月3日に成立したクルト・フォン・シュライヒャー内閣にも財務大臣として留任した。シュライヒャー内閣は1933年1月28日に倒閣したが、その後を受けて1月30日に成立したアドルフ・ヒトラー内閣でも留任することになる。
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