職歴および人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/06 22:05 UTC 版)
「ヤン・ヴィンツェント=ロストフスキ」の記事における「職歴および人物」の解説
キングストン・ポリテクニクの講師を務めたあと、1988年から1995年までロンドン大学スラヴ東欧学科(博士号を取得)で、それと同時に1992年から1995年まではLSEの経済政策センターで教鞭をとる。この期間リユボ・シルツと共に学術誌『共産主義経済』(のちの『共産主義経済と経済移行』と『ポスト共産主義経済』)を主宰。 1980年代初頭にはロンドンを拠点とした独立自主管理労働組合「連帯」支援組織「ポーリッシュ・ソリダリティ・キャンペーン」に参加。共産主義体制崩壊後の1989年から1991年にかけて行われたポーランドの経済移行期には、ポーランド副首相と財務相を兼任していたレシェク・バルツェロヴィチの顧問。 1990年代初頭にはロシア共和国のマクロ経済政策顧問。1995年にはブダペストの中央ヨーロッパ大学教授となり、1995年から2000年にかけてと2005年から2006年にかけての二度の期間は経済学部長を務める(注:本人が現在ポーランド共和国財務相を勤めている間は学部長職は休職)。 1997年から2000年まではポーランド共和国財務省マクロ経済政策委員会の会長。 シンクタンク「社会経済研究所(CASE)」の共同創立者の一人で同研究所の財団の委員であったが、ポーランド共和国財務相となったため2007年に退職。 2002年から2004年までポーランド国立銀行の経済顧問。2004年から2007年までにはPEKAO銀行の経済顧問。 2007年11月16日にドナルド・トゥスク政権で入閣、ポーランド共和国財務相に就任。 2013年11月27日、財務相を退任。 ヨーロッパ拡大、金融政策、通貨政策、ポスト共産主義経済の分野で多くの学術論文を著している。 妻と2人の子がおり、ポーランド語、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語に堪能。
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