職歴と戦時中の功績とは? わかりやすく解説

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職歴と戦時中の功績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 15:24 UTC 版)

セフトン・デルマー」の記事における「職歴と戦時中の功績」の解説

歴史学学位得て大学卒業した後、彼はフリーランスジャーナリストとして働き始めその後1928年デイリー・エクスプレス新たに開設したベルリン支局支局長として採用された。ドイツ在住の間、彼はエルンスト・レーム親しくなり、その後レーム取り次ぎによりイギリスジャーナリストとして初めアドルフ・ヒトラーインタビュー成功した1931年にはデルマーヒトラーから一通の手紙をもらっており、この中でヒトラーは、「ドイツイギリス真の友好関係を築くべきだ」という持論述べていた(後にこの手紙は2010年3月オークション掛けられている)。1932年ドイツ総選挙が行われ、デルマーヒトラー個人用飛行機にてヒトラーと共に遊説の旅に出た。またヒトラー国会議事堂放火事件後の視察訪れた際にも同行したデルマードイツ滞在中のこの間ナチシンパ化した非難されており、一時イギリス政府は彼がナチ党御先棒担いでいると考えていた。意地悪いことにナチ複数指導者の方はデルマーMI6SIS)の諜報員だと確信していた。しかもナチ指導者達は彼を単なる諜報員ではなくその中で重要な部類に入る者だと考えており、彼があらゆる人との関わり避けたことによりその疑惑強くなった。 1933年デルマーデイリー・エクスプレスパリ支局長に異動させられた。1935年デルマーはイザベル・ニコルズ(英語版)(Isabel Nichols)と結婚した(後に離婚し、彼女はコンスタント・ランバート再婚、さらにランバート没後1955年アラン・ロースソーン3度目再婚をしている)。第二次世界大戦中は彼女はデルマー仕事手伝いブラック・プロパガンダ活動協力している。デルマー1936年スペイン内戦従軍記者として派遣されており、共和派英語版)と民族派英語版双方会見している。また1939年9月ドイツ国防軍によるポーランド侵攻1940年ドイツ軍西部進撃といったヨーロッパ大事件報じている。 デルマー1939年3月イギリス通商代表部British Trade Delegation)がソ連との交渉に向かう際に同行したが、乗り込んだモスクワ行き列車当時タイムズ社の代理同じく取材のためソ連向かっていたイアン・フレミング出会っている。のちに両者は共に情報機関与することとなる。 その後デルマーイギリスへ帰国しBBCドイツ語部門アナウンサーとして一時働くことになる。ある日ヒトラードイツ国会(クロールオーパー(英語版ドイツ語版))で講和申し出る演説ラジオ放送していた。デルマーはこれにすぐさま反応しイギリス国民向かって、「我々はただちにあなた(ヒトラー)にこういう言葉返そう、それは全く縁起でもない嘘だ、と。」("We hurl it right back at you, right in your evil smelling teeth.")というフレーズ電波乗せている。彼の喫緊かつ独断での拒否反応ドイツ大きな衝撃もたらし対してゲッベルスはこの事件イギリス政府差し金違いない結論付けた。このレスポンス成功は、仮にその許可を時間を掛けて一々取っていれば上手くいかなかったであろう程の大きなインパクトもたらしたことに疑う余地無かったイギリス政府結果が望ましいものであったため仰天したが、政府代弁者として意向沿った発言を彼が今後繰り返すかどうか分かり兼ねていた。 1940年9月デルマー政治戦争執行部英語版)("Political Warfare Executive", PWE)の職員採用されナチス・ドイツ対すブラック・プロパガンダ放送計画するよう命ぜられた。上司のレナード・シンクレア・イングラムズ(Leonard St Clair Ingrams, 1900-1953)はイギリス外務省の「政治情報部門」("Political Intelligence Department")での職務のためデルマー身辺調査セキュリティ・クリアランス英語版))を行っている。現在ではミルトン・キーンズ内のタウンにある、ウェーブンドン(英語版)のとある塔が本作戦の本拠地であった。ここは収録所であり、短波送信所がゴウコット(英語版)とポッツグローヴ(英語版にあったデルマー参加によりプロパガンダ放送運用するその他「研究部隊」("Research Units")も多く参加することとなった。 この作戦狙いは、ラジオ放送用いてヒトラーナチ熱烈な支持者であることを装いつつもその裏ヒトラー顔に泥を塗ることであったデルマーが行ったプロパガンダ活動のうち、初めてかつ最も大きな成功収めたものは短波局「グスタフ・ジークフリート・アインス(英語版)」("Gustav Siegfried Eins", グスタフ・ジークフリート1号局)の開設である。これは部隊内では"G.3"と呼んでいた。 この放送局から流れプロパガンダにおいては、「デア・シェフ」("Der Chef", 「とあるお偉いさん」)というキャラクターが創り出された。この人物は筋金入りナチであり、「飲んだくれユダヤじじいの扁平足野郎」("flat-footed bastard of a drunk old Jew")と呼ぶチャーチルと、ナチ革命邪魔した売国奴共産党員(Parteikommune)を徹底的に扱き下ろしていた。放送局の名前グスタフ・ジークフリート・アインスは短く"GS1"とも呼ばれたが、聴取者の心に、この放送局の名前は「秘密放送1号」("Geheimsender 1")はたまた参謀本部1号」("Generalstab 1")ということを実は意味しているのではないか?という1つ疑問を残すこととなった(単にGSを表すドイツ陸軍のフォネーティッシェス・アルファベート(Phonetisches Alphabet)という説もある)。 "GS1"は1941年5月23日夕刻第1回目放送オンエアした(奇しくも放送開始の丁度12日前にヘス飛行機スコットランド不時着しており、放送でもそのこと触れられている)。デア・シェフを演じたのはベルリンジャーナリストイギリス亡命したペーター・ゼックレマン(Peter Secklemann)である。チームメンバー彼のみが作戦本部であるベッドフォードシャーのアスプレー・ギーズ(英語版)にある目立たない赤煉瓦の家、通称「ザ・ルカリー」("The Rookery", 「烏の巣」)に事前に到着していた。後にシェフサポートする別の人物としてジャーナリストのヨハネス・ラインホルツ(Johannes Reinholz)も加わった以前からブラック・プロパガンダ苦々しく思っていた労働党議員スタッフォード・クリップスデルマー活動を(同党員のリチャード・クロスマン(英語版)の干渉により)見つけるや否や当時外務大臣アンソニー・イーデン告発するため次のフレーズを含む書簡送った。「もしこれが戦争に勝つのに必要なものだとお考えならば私は寧ろ戦争負けて良い思います。」("If this is the sort of thing that is needed to win the war, why, I'd rather lose it.")窮地陥ったデルマー救ったのは、本部長のロバート・ブルース・ロックハート(英語版であった。彼はドイツ人加虐性を扇動するようなプロパガンダ流しこれを上手く利用する必要性政府関係者説いた。 GS1は延べ700回の放送行った後、1943年10月放送終了した。その理由新しプロパガンダ放送局開設目途立ったためである(後述の「ゾルダーテンゼンダー・カレー」)。最終回は、ゲシュタポ当局襲撃受けたかのように銃声轟き、デア・シェフが逮捕射殺されたことを仄めかしながらエンディング迎えた(ただまずいことに、ドイツ語理解していないレコード技師がデア・シェフの最期2度流してしまったため、彼は2度死んだ)。 デルマーは他にもいくつかのプロパガンダ放送局設立した。そして彼は話の信憑性高めるため中立国向けのドイツ関連郵便密かにゴシップ割り込ませるなど情報活動注意深く行うことでその成功得た。各情報機関におけるデルマー信用度というのは、例え海軍本部ドイツ潜水艦乗組員標的士気下げるような速報利用しようとした際に彼を探していたことからも推し量れる。海軍本部での業務サポートのため、デルマーはクロウボロ(英語版)に建設されていた「アスピディストラ(英語版)」("Aspidistra", 「葉蘭」)というアメリカRCA製の出力500キロワット送信施設利用することが可能となった。これは既製中波短波送信装置のうち出力最大のものであり、SIS第8課が165,000ポンド購入した。またアスピディストラの利用1942年から開放されたが、PWEBBC王立空軍RAF)との間での共有という形であった。このアスピディストラを用いてデルマー新し放送局、「大西洋ドイツ語短波放送局」("Deutsche Kurzwellensender Atlantik")を開設した。これはより一般には「大西洋放送局」("Atlantiksender", アトランティークゼンダー)と呼ばれドイツ国内では退廃的であるとして禁ぜられたジャズや、中立国スウェーデン経由もしくはRAF諜報員クーリエ)を通じて手に入れたドイツ新進気鋭ダンスミュージック、またドイツのインハウス・ダンスバンドの音楽流した特定個人偏ったアナウンスにするため、ドイツ海軍に関する重要かつ詳細な規則ナチス反感を持つ収容所捕虜から手に入れドイツ新聞郵便物ふるいに掛け海軍軍人生年月日結婚歴叙勲歴などを優先的に調べ上げ、これら全て放送反映させた。この結果Uボート乗組員はじめとしてドイツの海軍軍人はアトランティークゼンダーが敵国放送であると見当付いていたものの、内容心地良さ聞き入ってしまった者が多かった女優のアグネス・バーネル(英語版)(アニエス・ベルネール)はヴィッキー(Vicki)という名の魅惑的な女性演じ時折間に、ドイツの海軍軍人士気効果的に下げニュースUボート艦長連合軍投降させるよう信じ込ませるような数々言葉散りばめてアナウンスした。 「クリスタス・デア・ケーニヒ」("Christus der König", 「王たるキリスト」)放送局PWE内では"G.8"と呼称)はドイツ人宗教的意識はたらき掛けるプロパガンダ発信し強制労働収容所恐怖亡命したドイツ人牧師の口から語りかけるものであった。 GS1閉局後1943年10月、「ゾルダーテンゼンダー・カレー(英語版)」("Soldatensender Calais", 「カレー軍用放送局」)というデルマー指揮するもう一つ秘密放送局開設された(PWE内では"G.9"と呼称)。これはドイツ軍全体ターゲットしたものである。クロウボロのアスピディストラから発信されたゾルダーテンゼンダー・カレーのプログラムには、様々な大衆音楽駆使しつつ、戦争に関するプレス・カバレッジ("Press coverage", 「短報」)、そして醜聞("dirt")を間に挟みこみドイツ軍士気低下狙ったデルマーのプロパガンダ・ストーリーには、広範囲渡って語られ根拠の無い伝聞である「君たちドイツ軍人が異国戦っている内に君たち女房今頃外国人労働者ベッドを共にしているぞ!」というような前線兵士サボタージュさせることを目的とした如何わしい物もあった。この放送軍人の間だけではなくドイツ銃後にいる大衆の間でも人気博したヴァルキューレ作戦失敗後にイギリス亡命しBBCドイツ語部門勤務していたオットー・ヨーンもこのゾルダーテンゼンダー・カレーのプログラム参加している。 デルマー灰色宣伝的ドイツ語日刊紙発行指揮した題号は「兵隊新聞ドイツ語版)」("Nachrichten für die Truppe")と言い1944年4月末から出回り始めた。この新聞記事大部分はゾルダーテンゼンダー・カレーの放送内容を基にしている。兵隊新聞連合国遠征軍最高司令部SHAEF)のもとデルマー委託されチーム執筆しアメリカ第8空軍の「特別ビラ撒き中隊」("Special Leaflet Squadron")が毎朝ドイツベルギーそしてフランスの空からこの新聞散布した戦闘ドイツ本土に迫るにつれて、反ナチ掲げ架空レジスタンス運動抵抗運動存在するのような印象作り出すためにブラック・プロパガンダ数多く利用された。戦後ナチス幹部自分達の所属組織も実はこのような架空運動同属なのだ(=ナチスなど存在しなかった)と主張することと関連させて、デルマーはこの出来事を、のちに自身回想録タイトルにもなっている『ブラック・ブーメラン』("Black Boomerang")、すなわちプロパガンダによる弊害説得ブーメラン効果)であると自己批判している。 欧州戦い終わり迎えた頃、デルマーあごひげ剃り身形整え)、同僚には自分達がやってきたことを一切口外しないようアドバイスした。その理由は、第一次世界大戦後ナチスが「ドイツ人軍事的に負けなかった、卑劣極まりない遣り口敗れたのだ!」と主張したことと似たような口実与えないようにしたかったためである。 ドイツ降伏直後1945年5月末日デルマーナチ政治家憲法学者でもあったフリードリヒ・グリム(ドイツ語版)にインタビュー行っている。インタビュー時にデルマー自身イギリス大学教授であると身分詐称しこの度戦争歴史的側面について話をしていた。しかしインタビュー中、突如デルマーは山のような死体写った強制収容所写真グリム見せたグリム初め驚いたが、彼は先の大戦でも相手残虐非道な光景見せ掛けるための偽装写真出回ったことを述べ、さらにナチス・ドイツ崩壊目前となってきた頃から外国報道機関頻繁にドイツ強制収容所残虐さを強調するようになったことを知っており、報じられる収容所死体の数が初め数百だったものが、たった6週間10万になった報道されたことを不審思っていた。そしてデルマー見せた写真それ以上見えると述べた。これに驚いたデルマー自分大学教授ではないことを白状し、「私はあなたが話したことと関連する組織中心にいたのです、そうこの残虐非道なプロパガンダの。そして我が国はこれを持ってして戦い抜いたのです。」と唐突にプロパガンダであることを暴露した。これに対しグリムは「知っていたさ。そんなことはやめるべきだ。」と問い詰めたが、デルマーは「いいえ。むしろこれから続けますよ! 我々はこのような凶悪なプロパガンダ続けます益々強化するでしょうあなた方ドイツ人誰からも相手にされなくなるまで、あなた方対す他国同情心吹き飛ぶまで、そしてあなた方混乱し自分達のやっていることすら分からなくなるまで。」と反論したデルマー見せた写真本当に偽造されたものであったかは不明であるが、このインタビューホロコースト否認論者のウドー・ヴァレンディー(英語版)が著書"The Methods of Reeducation"でグリム著書から誤解の上引用しており、これがホロコースト連合国プロパガンダであった証拠である、と同書の中で主張している。

※この「職歴と戦時中の功績」の解説は、「セフトン・デルマー」の解説の一部です。
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