2007年まで
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石川県金沢市の出身。兄弟が既に柔道を始めていたこともあり、親の勧めで6歳になる直前に岩井柔道塾で柔道を習い始めた。指導者の岩井克良によれば、味噌蔵町小学校時代の松本は「表情がないし口数が少ない。黙って黙々とやるタイプで、勝ったって喜ばないで淡々としていた」。団体戦では10kg以上重い男子相手にも巧みな間合いで対等に渡り合う引き分け要員として活躍した。一方で、岩井柔道塾では週1回レスリングの練習も取り入れていた影響もあってか、レスリングスタイルに似た前傾の構えをこの当時に身に付けた。柔道の大会以外にレスリングの全国少年少女レスリング選手権大会にも出場すると、2年生の時に22kg級で2位、3年生の時には24kg級で3位、4年生の時には27kg級に出場して3位を記録している。 兼六中学校2年の時には全国中学校柔道大会44kg級で3位に入るも、その時1つ年上の姉である松本明子が48kg級で優勝したのに発奮して、翌年の全国中学校柔道大会では2階級上の52kg級に出場して、優勝を果たした。 高校は金沢から上京して藤村女子高校に進学した。高校1年の3月に全国高校選手権の52kg級に出場するが、3回戦で埼玉栄高校2年の三木千尋に有効を取られて敗れた。高校2年になると57kg級に階級を上げた。8月にはインターハイに出場して決勝まで進むと、道場の1年先輩でその年の世界ジュニアで優勝することにもなる津幡高校3年の広村麻衣を判定(3-0)で破って優勝した。 しかし、三井住友海上と合同で練習する藤村女子高校の練習方法が肌に合わず、また、東京の生活が馴染めなかったこともあり、高校2年の10月には郷里の金沢学院東高校に転校することとなった。これにより、高校3年の時は全国高等学校体育連盟の規約でインターハイには出場できなかったものの、9月の全日本ジュニアでは、決勝で大阪工大高校1年の牧志津香を横四方固で破ったのをはじめ、オール一本勝ちして優勝を果たした。一方で、高校2年の1月には初めてのシニアの国際大会となるブルガリア国際に出場すると、準決勝でオーストリアのサブリナ・フィルツモザーに腕挫十字固で敗れるが3位となった。高校3年の8月にはドイツジュニア国際に出場して、決勝で地元ドイツの選手を破って優勝した。 一度上京しながら郷里に戻ってしまったこともあり、大学進学にあたっては地元の短大に進んで栄養士の資格を取得することも考えたものの、環境の整った帝京大学で柔道に取り組みたいという気持ちが上回ったことで2006年4月には同大学への進学を果たし、国会議員の谷亮子を輩出したことでも有名な同大学柔道部の一員となった。1年の8月にはドイツジュニア国際に出場するが、準々決勝でブラジルのケトレイン・クアドロスに敗れて3位にとどまり、2連覇はならなかった。9月の全日本ジュニア決勝では筑波大学1年の藤田康恵を指導1で破って2連覇を達成して、世界ジュニア代表に選ばれた。10月の世界ジュニアでは初戦でスロベニアのタイダ・ケティスと対戦して、GSに入ってから相手の頭が鼻を直撃したことにより骨折が疑われるくらいの出血となった。止血を施して柔道衣を取替え試合再開となったが、再び出血したところ、審判団が合議の上、治療に時間がかかるのみならず、また出血すると危険だからという理由で棄権負けを言い渡した。この裁定に抗議したものの受け入れられなかった。その後は気力を振り絞って3位決定戦まで進むが、そこでハンガリーのドラ・ヘゲダスに腕挫十字固で敗れて5位に終わった。 2007年に入ると、2月のベルギー国際では準決勝で元世界チャンピオンであるキューバのユリスレイディス・ルペティに効果で敗れて3位だった。2年になると、6月の優勝大会では決勝で東海大学と対戦して藤川美紗を縦四方固で破るもチームは2位にとどまった。10月の学生体重別では2回戦で山梨学院大学3年の高部由美に敗れるも、11月の講道館杯では決勝で牧志津香から効果を取って優勢勝して、シニアの全国大会で初優勝を果たした。これが評価されて12月の嘉納杯に出場するも、3回戦でハンガリーのバツコー・ベルナデットに掬投で敗れるが、3位決定戦ではこの階級で長きにわたって活躍してきた元オリンピック及び世界チャンピオンであるスペインのイサベル・フェルナンデスを判定(3-0)で破って3位になった。
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2007年まで
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「石川ミリオンスターズ」の記事における「2007年まで」の解説
2006年10月27日 - チームの名称が「石川ミリオンスターズ」に決定する。 2007年1月25日 - ドラフト会議に参加。 2007年3月5日 - 全選手との契約を完了する。 2007年10月16日 - 富山サンダーバーズ戦に勝利し、リーグの初代優勝チームとなる。 2007年10月17日 - 2007年度シーズンの全日程を終了。43勝22敗7引分、勝率.662で1位。 2007年10月20日 - 四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズとの間でグランドチャンピオンシップを開催。10月28日まで行われ、1勝3敗で敗退。詳細は2007年のグランドチャンピオンシップを参照。 2007年11月19日 - プロ野球ドラフト会議で内村賢介が東北楽天ゴールデンイーグルスに育成選手として指名され、リーグ初のNPB指名選手となる。
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2007年まで
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「サンダー・ヴァン・ドーン」の記事における「2007年まで」の解説
スペイン領イビサ島のジャッジメント・サンデーやロンドンのザ・ギャラリーなどのクラブでの活動経験を得られたことは、彼のキャリアにおいて最初の大きな業績となった。2007年7月、BBCラジオワンのエディ・ハリーウェルズ=ショーで紹介された。2007年から2008年にかけて、自主作成しリミックスなどを行う彼のプロダクションは、一般的な電子音楽産業界から歓迎され、世界50カ国以上のラジオ局に支持された。 彼がリミックスを手掛けた注目すべきアーティストたちには、シーア、ザ・キラーズ、スウェディッシュハウスマフィア、デペッシュ・モード など数多くの人たちがいる。さらに、ロビー・ウィリアムズとのコラボレーションも行った。
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2007年まで
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「チュランディ・マルティナ」の記事における「2007年まで」の解説
マルティナは1984年キュラソー島に生まれた。1999年初めて国際大会となる世界ユース陸上競技選手権大会100mに出場し準決勝進出の成績を残した。2000年と2002年の世界ジュニア陸上競技選手権大会にも出場したが結果を残すことはできなかった。2002年ブラジル・ベレンで開催された南アメリカ競技大会100mにおいて優勝、これが初めて得た国際大会のタイトルとなった。 2003年に100mの自己記録を10秒29まで伸ばし、6月にセントジョージズで開催された中央アメリカ・カリブ海陸上競技選手権大会にオランダ領アンティル代表として出場した。また8月のパンアメリカン競技大会100mにも出場し準決勝に進出した。8月24日には世界陸上競技選手権パリ大会100mにおいて初の世界選手権出場を果たしたが、モーリス・グリーンと同組の1次予選8組5着(10秒35)となり敗退した。 2004年8月アテネオリンピックにオランダ領アンティル選手団3人のうちの1人として、自身初のオリンピック出場を果たした。開会式では母国選手団の旗手を務めた。5月サントドミンゴで開催された競技会において自己記録を0秒16短縮する10秒13を記録するなど、2004年はマルティナにとって記録を大きく向上させた年となった。 2005年中央アメリカ・カリブ海陸上競技選手権大会では100mで3位に入り銅メダルを獲得したほか、4×100mリレーでオランダ領アンティルチームのアンカーとして銀メダルを獲得した。またチームはオランダ領アンティル記録を更新した。世界陸上競技選手権ヘルシンキ大会4×100mリレーではチームの決勝進出に貢献し、6位入賞の成績を残すとともに国内記録を38秒45に更新させた。男子100mにも出場したがこちらは2次予選敗退の結果に終わった。 2006年4月、エルパソで開催された競技会において100mの自己記録を10秒04に更新した。7月、中央アメリカ・カリブ海競技大会に出場し、100mでは10秒06の大会新記録を樹立して優勝した。4×100mリレーでもチームを優勝へ導き、2つめの金メダルを獲得した。 2007年6月、マルティナはパンアメリカン競技大会100mで大会記録タイの10秒06を記録して優勝した。8月、世界陸上競技選手権大阪大会では100m、200mともに決勝に進出し、いずれも5位の成績を残した。9月22日、IAAFワールドアスレチックファイナル100mに出場し6位となり、この年の競技を終えた。
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2007年まで
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ジャマイカ西部のトレローニーで西アフリカ系の家庭に生まれる。彼とその兄弟には、Usain(حُُسَيْن ḥusayn フサイン)、Sadeeki(シッディーク)、Sherine(شيرين Shirin シーリーン)と、いずれもアフリカで流通するアラビア語・ペルシア語系の名がつけられている。10代前半まではクリケットの選手だった。 2002年に地元ジャマイカで行われた世界ジュニア選手権で大会史上最年少(当時)の15歳で優勝。その名を轟かせた。更に、翌年の世界ユース選手権でも優勝し、2004年には200mで、17歳にしてジュニア史上初めて20秒を切る19秒93のジュニア世界新記録を出した。この頃から彼は自分自身の才能に気付き始めたという。しかし、この年はその後故障。連覇のかかった世界ジュニアも出場できなかった。そして、大型新人としてアテネオリンピックには果敢に出場するも、一次予選で惨敗(21秒05で5着)、苦汁を嘗めた。 2005年に行われた世界選手権では、決勝には進んだものの、足を痛めた影響で最下位(26秒27,-0.5 m/s)となった。 2007年8月30日、世界選手権200m決勝において、19秒91(-0.8 m/s)で銀メダルを獲得する。優勝は19秒76の大会新(当時)を記録した、100m王者のタイソン・ゲイである。 2007年9月1日、世界選手権400mリレー決勝では2走を務め、37秒89(ジャマイカ新記録(当時))で銀メダルを獲得する。
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