初のオリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:55 UTC 版)
2008年の北京オリンピックの男子団体準決勝では2-3でドイツに敗れ5位入賞、シングルスでは世界選手権シングルス銅メダルのギリシャのクレアンガに敗れベスト32。2009年の第50回世界卓球選手権個人戦では岸川聖也とのダブルスで銅メダルを獲得した。また、その後に続いた中国オープン、荻村杯では同ダブルスで連続優勝している。この年から中国の中国スーパーリーグの浙商銀行に加入。2008年中国スーパーリーグではオリンピック(2012)、ワールドカップ(2011)、世界選手権(2011、2013)で金メダルに輝いた張継科に勝利。 2009年、韓国オープンにおいて準々決勝で朱世赫、準決勝でオフチャロフ、決勝で郝帥といった格上の強豪を次々と撃破し、優勝した。また、同年のアジア選手権団体戦では、中国との決勝戦で2-1先攻で迎えた水谷vs許听戦で、最終ゲーム10-7のマッチポイントからデュースに持ち込まれ逆転負けを喫したものの、中国の同年代に対し対等に戦った一戦であった。第5回東アジア競技大会では男子ダブルス準決勝で韓国のエースペアとの試合となりフルセットでは戦いに敗れて銅メダル。団体戦では世界ランク1位の中国の王皓を破るなどの活躍を見せ、2010年1月の世界ランキングで初めてトップ10入りを果たした。年を経るにつれ体の細さを補う筋力も徐々につき、本来後ろでプレーすることを好む選手だったが平成20年度の全日本では積極的に前に出て回り込む戦法を心がけ、優勝した。4連覇が懸かっていた平成21年度全日本卓球選手権大会の男子準決勝でも張一博にゲームカウント1-3のポイント7-9まで追い込まれながら、そこから粘りを見せて勝利し、決勝でも吉田をストレートで下し4連覇を果たした。 2009ユニバーシアードベオグラード大会では、日本スポーツ選手団の主将を務めた。男子団体で銅メダルに貢献した。 初優勝を果たした平成18年度から、田崎俊雄、坪口、岸川、張一博といった選手に毎年敗北の際まで追い詰められながらも逆転する、という精神的な強さを見せていた。 2010年の全日本卓球選手権で、男子ダブルスにおいては決勝で松平健太・丹羽孝希組に敗れて5連覇はならなかったものの、シングルスにおいては初戦から圧倒的な力の差を見せつけ優勝し、史上初の男子シングルス5連覇を達成した。また、この年から再び中国の中国スーパーリーグの四川郵儲・先鋒汽車に加入、この年ITTFワールドツアー・グランドファイナルで初優勝。2010年中国スーパーリーグでは世界選手権金メダル11個取得の王励勤選手に勝利。 2010ワールドカップシングルスでは準決勝で中国の張継科との対戦となった。ゲームセット3ー0とリードしておりあと一本で勝利という場面でサービスのフォルトを取られ1ゲームを落とす。張継科に勢いが戻り4セット連取され逆転負けとなった。3位決定戦ではドイツのティモ・ボルとの対戦となり、3ー4で敗れ4位の結果となった。フォルクスワーゲンカップ広州では日本人初のシングルス銅メダル獲得となった。フォルクスワーゲンカップブラウンシュヴァイクでも2度目のシングルス銅メダル獲得。※フォルクスワーゲンカップは男女世界ランキング上位8名(各国1名)で行われる世界ランキングによる世界大会である。 2010世界選抜対中国の世界選抜メンバーに選ばれる。 2011年の全日本卓球選手権では男子シングルスで準決勝まで順当に勝ち上がるものの、決勝で高校3年生の吉村真晴にフルセットの末3-4で敗れ6連覇を阻まれた。先にチャンピオンシップポイント10ー7でリードしていたが、吉村真晴が4連続ポイントと逆転され2位の結果となった。2011年ワールドカップシングルスでは3位決定戦で韓国のチュ・セヒョクに敗れて4位。2011年世界卓球選手権大会では男子シングルスベスト8の成績を残した。フォルクスワーゲンカップシングルス3回連続銅メダル獲得。 2011世界選抜対中国の世界選抜メンバーに選ばれる。
※この「初のオリンピック」の解説は、「水谷隼」の解説の一部です。
「初のオリンピック」を含む「水谷隼」の記事については、「水谷隼」の概要を参照ください。
- 初のオリンピックのページへのリンク