初のジェット機同士の空中戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)
「朝鮮戦争」の記事における「初のジェット機同士の空中戦」の解説
また、ソ連により中国に供与されていた最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が中国軍の参戦で投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間でジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。史上初のジェット戦闘機同士の空中戦は、1950年11月8日のF-80によるMiG-15の撃墜である。当時はまだF4Uコルセア、P-51、F6Fなどのレシプロ戦闘機が現役で、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機への時代の転換期であった。哨戒機や爆撃機はほとんどの機体がレシプロ機であり、第二次世界大戦時に使用していたボーイングB-29などの機体も投入された。MiG-15と会敵する可能性が高い中朝国境はミグ回廊(英語版)と呼ばれ、中国領の安東飛行場などから出撃しているために追撃できなかった国連軍は苦戦を強いられた。 後退翼を採用したMiG-15は当初、速度差で国連軍のノースアメリカンP-51やホーカー シーフューリーなどのレシプロ戦闘機を圧倒し、既に旧式化していた直線翼のF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた ほか、レシプロ機であるボーイングB-29やボーイングB-50[要出典]爆撃機の撃墜率を高めていった。しかし、すぐさまアメリカ軍も後退翼を採用した最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。旧式化したレシプロ戦闘機や直線翼のジェット戦闘機はその後の戦闘では対地攻撃などの爆撃任務や夜間戦闘任務に使用されたが、停戦後は多数の機体が退役し、練習機として運用されている。 初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた なお、MiG-15を操縦していたのは戦争初期には中国軍に編入されていた第64戦闘航空団(英語版)に所属するソ連のパイロットが多く、制服や国籍識別標識を中国軍に偽装していたが、王海らのような中国のパイロットも少なからず操縦していた。後半には北朝鮮のパイロットもある程度参加したが、低い練度のまま参戦したことで中ソに比べてエースパイロットは2名か0名だったとされる。十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86は最終的にMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になったとされる。 朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争ともなった。アメリカ陸・海軍のシコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士や、前線で負傷した兵員の搬送に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。 なお、世界初の本格的なジェット爆撃機であるボーイングB-47は実戦投入されなかった。また、朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与された。
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