財政改革・暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 15:15 UTC 版)
「マティアス・エルツベルガー」の記事における「財政改革・暗殺」の解説
エルツベルガーは続くバウアー内閣で財務相に就任。これまで州税であった所得税をライヒ税へ転換したほか、ドイツ国内鉄道の統一・国有化など、今日に繋がる改革を断行した。エルツベルガーはこの改革を租税制度の公正化にあると言明している。しかし公正化は十分に達成されたとは言えず、税収の中央集権化や国庫建て直しのための大資本家からの徴税も右翼プロパガンダの攻撃するところとなった。1920年3月、ついに彼は辞職を申し出た。翌1921年1月26日、元士官候補生の男がベルリンの裁判所を出たエルツベルガーを狙撃したが、肩に負傷しただけですんだ。しかし同年8月26日、極右テロ組織コンスルのメンバーである元陸軍少尉ハインリヒ・シュルツと元海軍少尉ハインリヒ・ティレッセン(ドイツ語版)が、地元で休暇中に党友と散歩していたエルツベルガーを襲撃、6発の銃弾を浴びせ、倒れたエルツベルガーの頭に2発の銃弾を撃ち込んで止めを刺した。ビーベラッハ・アン・デア・リスに埋葬された。 暗殺犯はナチスが政権を獲得した1933年に恩赦で出獄したが、第二次世界大戦後に再審され懲役刑を受けた。ミュージンゲンにあるエルツベルガーの生家は博物館になっており、またいくつかの学校や町の通りに彼の名が冠されている。
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