財政改革の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
調所は借入金の利用は当座の資金繰りと重要な要件に関わるものに限定し、通常経費は産物料でやりくりする方針を立てた。まず国許、江戸、大坂、京都などの藩の各部署に於いて事務手続きを徹底的に見直し、経費の削減に努めた。そして累積した多額の債務の償還に関しては、まず利息の支払いを差し止め、焦げ付いていた返済金に関しては少額の金を払って返済の繰り延べを行った。続いて藩主斉興の文政12年(1829年)の薩摩へ帰国予定を延期した。斉興は翌文政13年(1830年)に帰国するが、天保元年(1831年)に琉球国王尚育の即位に伴う謝恩使とともに江戸へ向かう予定を、天保3年(1832年)に延期することに成功した。このように参勤交代に要する経費の節減に成功する。 調所による改革の進行状況を見た重豪はこれまでにない手ごたえを感じた。天保元年(1830年)12月、重豪は調所に朱印状を与え、以下の3点を命じた。 来る卯の年(天保2年・1831年)から子の年(天保11年・1840年)までの間に、50万両の備蓄金を蓄えること。 50万両の備蓄金以外に、幕府への上納金、ならびに不時の出費に備えるための資金を用意せよ。 藩債の証文を回収せよ。 3つの命令とも容易には解決できない難題であった。調所は命令完遂に最善を尽くすとしながらも、重豪に対して出費増を抑えるよう、そして藩の意志として経費節減、薩摩藩産品の販売増に努めていくように、重豪からも申し渡して欲しいと要望した。もともと低い身分から取り立てられて藩の改革主任に抜擢された調所は、重豪の力を借りることによって改革に対する藩の意志統一を達成し、更に元来派手好きな面があった重豪にも釘を差したのである。
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