財務相就任と引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 21:09 UTC 版)
「オスカー・ラフォンテーヌ」の記事における「財務相就任と引退」の解説
その後、連邦参議院(上院)の与野党逆転状況を利用して、コール政権を封じ込め、巧みな左派的なレトリックで党を生き返らせることに成功。1998年の連邦議会選挙では、マスコミに人気の高いシュレーダー・ニーダーザクセン州首相(当時)を自らを抑えて首相候補に指名し、教育費の増加、環境税の導入や社会保険料の引き下げなどを主張して稀に見る党一丸となった選挙戦を展開、勝利に導いた。シュレーダー政権が誕生すると、ザールラント州首相を辞して入閣し、財務大臣に就任した。しかし人事をめぐって早くもシュレーダーとの齟齬が見え始める。そして1999年3月11日に、シュレーダー政権の経済政策に同調できないとして、蔵相と党の役職、連邦議会議員を全て辞職した。これについては後に著書の中で、内閣での協力不足のほか、1990年の傷害事件がトラウマとなり、政治のためではなく家族のために死にたいと思うようになっており、入閣してからの苦痛がそれを後押ししたと説明している。 その後は政界から身を引き、著作によるシュレーダー政権に対する攻撃を繰り返した。1999年のコソボ紛争へのドイツの参戦を激しく批判。シュレーダー政権の改革路線も新自由主義であるとして攻撃した。こうした言動により彼はSPD党内で完全に孤立した。彼は反グローバリゼーション団体ATTACに参加し、また保守系大衆紙「ビルト」に政府を攻撃するコラムを連載した。ただし例えばアフリカからの不法移民を収容所に入れるというオットー・シリー内相の案には賛意を示し、多文化主義の失敗したドイツでは、無制限の移民の流入によって雇用が不安になり犯罪が多発し、却って外国人への反感が強くなるだろう、という立場を取っている。
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