中央政界への進出
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1908年(明治41年)4月19日に発生した「川上弁護士邸焼き打ち事件」が代議士出馬のきっかけを作った。この事件は、秋田地方裁判所大曲支部の横手への移転を不満とする大曲町民が、移転推進を公言していた横手町(現横手市)出身の弁護士川上勝淑宅を焼き打ちした。この事件は横手出身の代議士沼田宇源太の政治活動によるもので、大曲からも代議士を送れという機運が高まり、同年6月の第10回総選挙に秋田県郡部区から無所属で出馬しトップ当選した。選挙では秋田進歩党(憲政本党)は準党員扱いで支援したものの、岩手県選出の原敬への敬服から帝国議会では立憲政友会に所属した。翌年1月には政友会秋田県支部創立発会式を挙げて党勢の拡大に努めた。第26回帝国議会では1年生議員ながら請願委員長に当選し、各種法律案のほか、港湾改良、全国鉄道速成、学制改革、河川改修費増額などに関する建議案を提出して可決させた。
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中央政界への進出
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「ジョセフ・P・ケネディ」の記事における「中央政界への進出」の解説
ウォール街とハリウッドで成功を収めたジョーの次の目標はワシントンだった。1930年、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアの紹介でフランクリン・ルーズベルトと面会したジョーは1932年の大統領選挙に打って出るルーズベルトの資金援助を申し出た。資金援助だけでなく、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをルーズベルト支持に引き込んでみせたジョーの功績は大きかったが、大統領当選後、ルーズベルトは彼にポストを与えなかった。ようやくジョーが政府の職を与えられたのは1934年7月、新設の証券取引委員会(SEC)初代委員長に任命されたのだった。証券業界における不正を根絶し、健全な株式市場になるよう監視し、コントロールする同委員会の委員長に、相場師として悪名高いジョーが任命されたことに人々は驚愕した。 ルーズベルトは世間の悪評も意に介さず、「泥棒を捕まえるのに泥棒が必要だ」とうそぶいていたという。「ニューヨーク・タイムズ」のコラムニスト、アーサー・クロックはこのとき、ジョーを擁護し、その経歴を褒め称えるコラムを書いた。クロックは以後、ジョーから報酬を受け取りながら、ケネディ家の「御用コラムニスト」をつとめることになる。 ジェームズ・ランディスなど有能なメンバーに恵まれたことと、ここで一花咲かせてやると張り切ったジョーが精力的に活動したことにより、証券取引委員会の活動は高い評価を得た。ジョーの任命を批判した人々も、その結果の前には彼の有能さを認めざるを得なかった。ジョーは一つの仕事をじっくりやるタイプではなかったので1935年9月には委員長の職を辞した。ジョーは財務長官のポストを望んでいたが、再選されたルーズベルトはそれを与える気はなかった。かといって、ジョーは在野にしておくと政権にどんな仇をなすかわからない。そこでルーズベルトは1937年3月、ジョーを連邦海事委員会の委員長に任命した。しかし、彼はこの程度のポストでは満足できず、わずか10ヶ月で辞任する。 1930年代、デトロイトのカトリック司祭チャールズ・カフリンは自身のラジオ番組によって大きな影響力を持っていた。1932年の大統領選挙ではルーズベルト支持であったが、1934年に反ルーズベルト派に転じた。カフリンの思想は、反共産主義、反ユダヤ主義、反ニューディール政策、そして孤立主義の支持であった。ルーズベルトはこのやっかいな論客を押さえ込むためにジョーを利用した。カフリンは自らユニオン党(Union Party)を結成するまでになっていた。そこでジョーはフランシス・スペルマン(ボストン大司教、後に枢機卿)とバチカンのエウジニオ・パチェッリ枢機卿(後に教皇ピウス12世)に圧力をかけてもらうことでカフリンを押さえ込んだ。
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