中央政界に新急進派として登場
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「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「中央政界に新急進派として登場」の解説
チェンバレンはバーミンガムにおける選挙の民衆動員・組織化を目的とする自由党の議会外組織「バーミンガム自由党連盟 (Birmingham Liberal Federation)」の中枢として活動しており、その組織力をバックに1876年にはバーミンガム選挙区から庶民院議員に当選して中央政界に移った。 国政においてチェンバレンは「新急進派」と呼ばれた。地主貴族などの封建主義勢力を打破して資本家中心の社会を目指す点では旧来の急進派(英語版)と同じだが、新急進派はそれに加えて1867年の第二次選挙法改正以来、労働者層が大きな影響力を持った点に着目し、資本家と労働者の階級闘争を抑えるべく労働者層に譲歩した社会改革を行う立場であった。具体的な内容の綱領をもち、大衆を動員するという旧来の急進派に見られなかった強力な政治運動の手法も「新」を冠された理由であると考えられる。さらに後年には急進派が平和外交・小英国主義外交を志向するのに対して新急進派は帝国主義外交・強硬外交を推進するという特徴も出てくる。 1877年にはバーミンガム自由党連盟を中核に他の選挙区の同種の組織と合同して「自由党全国連盟(英語版)」を結成した。同連盟はその強力な大衆動員能力で自由党の選挙運動に貢献したが、支援する候補に対して連盟の新急進的な方針に絶対服従することを要求したため、自由党の公認候補者の決定や政策に新急進派が大きな影響力を持つ原因になった。そのため保守党のみならず、ホイッグ派など自由党内他派閥からも強い批判を受けていた。 1880年の解散総選挙(英語版)の自由党の勝利はウィリアム・グラッドストンの「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」も去ることながら、連盟の大衆的組織活動の恩恵も大きかった。
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