中央政界への意欲
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「エドムント・シュトイバー」の記事における「中央政界への意欲」の解説
そのチャンスである2002年の連邦議会選挙が近づくと、CDU党首に就任していたアンゲラ・メルケルとの調整が必要になった。メルケルは最大野党CDUの党首ではあるが実績の少なさが不安視されており、地方政治家ながら経験十分なシュトイバーを推す声が強かったためである。2002年1月11日、両者がバイエルンにあるシュトイバーの自宅で朝食を共にして協議した結果、CDU/CSU共同の連邦首相候補としてシュトイバーが立つことになった。シュトイバーは大衆紙「Bild am Sonntag」の元編集長を選挙参謀に迎え、失業率の改善、旧東ドイツの開発推進、国内の安全保障などを争点に現職のゲアハルト・シュレーダーに挑んだ。シュレーダーは迫りつつあったイラク戦争を争点に持ち出し明確な反対意志を示して巻き返しを図り、9月22日に行われた選挙はSPD・緑の党連立政権の辛勝という結果に終わった。バイエルンによる中央政界制覇というシュトラウス、そしてシュトイバーの念願は果たせなかった。 2004年、フランスのジャック・シラク大統領とシュレーダー首相はシュトイバーを欧州委員会委員長に推したが、シュトイバーは固辞した。同年のドイツ大統領選挙でもシュトイバーを推す声があったが、実権のない大統領職は彼には問題外であった。シュレーダー政権の弱体化により、2005年9月に連邦議会選挙が前倒し実施されたが、このときCDU/CSUの首相候補として立ったのは前回身を引いたアンゲラ・メルケルであった。ところが議席減かつ僅差ながらCDU/CSUは第一党の座をかろうじて確保し、長い連立協議の結果メルケルを首班とするCDU/CSU・SPDによる「大連立」内閣が発足することになる。重鎮シュトイバーは経済相として入閣する予定であったが、11月1日になって突然、入閣せずバイエルン州首相に留まると表明した。シュトイバーは理由として、SPD党首フランツ・ミュンテフェーリングが党首を辞任したことを挙げたが、実際にはシュトイバーの目論見では経済相と研究教育相を兼ねた「スーパー大臣」になるはずであったのに、研究教育相のポストにアンネッテ・シャーヴァンが内定したことにつむじを曲げたためであるといわれている。当選したばかりの連邦議会議員の椅子もひと月足らずで捨て、シュトイバーはバイエルンに戻った。 中央政界とバイエルンの間で揺れる優柔不断なシュトイバーの態度には、CSU内部からも州首相として信を問うべきとの批判の声があがった。ガブリエレ・パウリがシュトイバーの再出馬に公然と反対すると、党内に通低していたその声が噴出し、ついに2007年1月18日、シュトイバーは9月に州首相を辞し次期党首選挙にも立候補しないと表明した。バイエルン州経済相のエルヴィン・フーバーが9月27日に後任のCSU党首に選出され、バイエルン州内相ギュンター・ベックシュタインが10月9日に後継の州首相に就任し、シュトイバーは全ての公職から退いた。 退任後のシュトイバーには欧州委員会やさまざまな企業から声がかかっている。ドイツ人の例にもれずサッカー・ファンである彼は、バイエルン・ミュンヘンの経営委員、またSpVggウンターハヒンク、TSV1860ミュンヘンの会員でもあり、プロスポーツに深く関わっている。フランツ・ベッケンバウアーとも親しく、2002 FIFAワールドカップ日韓大会の際は横浜で行われた決勝戦を観戦し(その年の選挙に連邦首相の座を賭けて激突するシュレーダー首相も共に観戦)、ベッケンバウアーの配慮で準優勝した代表チームと共にドイツに凱旋した。
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