ミッドロージアン・キャンペーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「ミッドロージアン・キャンペーン」の解説
しかしその後、不況と農業不作でディズレーリ政権に不利な政治情勢が生まれた。とりわけ農業不振は地主の多い保守党には大きな問題だった。アメリカの農業技術の向上で安い穀物がイギリスに流入するようになったこともイギリスの農業不振を加速させており、保守党内では保護貿易復活を求める声が強まったが、ディズレーリ首相は都市労働者層の反発を恐れて保護貿易復活には慎重だった。結局保守党は保護貿易・自由貿易で分裂しはじめた。一方自由党はもともと自由貿易主義で固まっている政党なので分裂することなく、総選挙に邁進することができた。またディズレーリ政権は第二次アフガニスタン戦争とズールー戦争に勝利したものの、その不手際をめぐって批判を受けており、これらが自由党とグラッドストンにとって格好の攻撃材料となった。 グラッドストンは次の総選挙に備えて、選挙区をスコットランド・ミッドロージアン選挙区(英語版)に変更し、1879年11月から12月にかけて「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」と呼ばれる一連のディズレーリ批判演説を行って支持率を高めた。ディズレーリの帝国主義政策を「栄光の幻を追って税金を無駄使いしている」と切り捨て、「我々が未開人と呼ぶ人々の人権を忘れるな。粗末な家で暮らしている彼らも、神の目から見れば諸君らと全く等しく尊重されるべき生命なのだ」と語り、未だ続いていたアフガン戦争を批判した。また「アイルランド・ウェールズ・スコットランドには何らかの自治が与えられるべきである」と主張した。農業については、なお自由貿易を支持し、拙速に保護貿易へ移行すべきではないと訴えた。グラスゴー大学の演説では物質主義や無宗教者と戦うことを宣言した。 こうした「ミッドロージアン・キャンペーン」が注目されたのは、グラッドストンの演説のうまさというより、かつてない規模で集会やイベントが行われ、その盛り上がりの中で自由党一の有名人であるグラッドストンが登場して演説を行い、それらの内容が新聞で大々的に報道されたからである。したがってそうした演出を担当していたローズベリー伯爵が真の功労者であった。このキャンペーンは自由党を「名望家政党」から「大衆政党」へ転換させるきっかけになったと評価されている。 [先頭へ戻る]
※この「ミッドロージアン・キャンペーン」の解説は、「ウィリアム・グラッドストン」の解説の一部です。
「ミッドロージアン・キャンペーン」を含む「ウィリアム・グラッドストン」の記事については、「ウィリアム・グラッドストン」の概要を参照ください。
- ミッドロージアン・キャンペーンのページへのリンク