自由党党首として
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「スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)」の記事における「自由党党首として」の解説
1874年2月に行われた解散総選挙(英語版)に敗れたグラッドストン自由党政権は、総辞職した。政界引退を決意していたグラッドストンは1875年1月にも自由党党首・ 自由党庶民院院内総務[要リンク修正]職をハーティントン侯に譲った。 しかしその後もグラッドストンは党に大きな影響力を及ぼし続け、バルカン半島でキリスト教徒虐殺を行うトルコへの反対運動を主導した。ハーティントン侯は反トルコ運動に消極的であったものの、グラッドストンには忠実に行動し、全自由党議員にグラッドストンが提出したトルコ批判決議に賛成票を投じさせた(保守党が多数派なので否決されている)。 しかしハーティントン侯もこうした状況に満足してるわけではなく、自由党貴族院院内総務グランヴィル伯爵に宛てて書いた手紙の中で「ミスターGは我々に従属を期待することはできないはずです。しかし我々がそれに甘んじないと、党の一部分が彼に従い、党が分裂することは目に見えているのです。」「彼は自分が党首ではないと言ってるだけで党首たることを止めないのです。昨秋以来、彼がやっているように、彼が指導するなら彼が党首なのです。そして彼が要求しない唯一の物は党指導権に当然伴うはずの責任だけです」と不満を露わにしている。 1880年3月から4月にかけて行われた総選挙(英語版)に自由党が勝利したことで自由党政権が誕生する見込みとなった。一般にこの総選挙の勝利はグラッドストンの「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」の成果と評価されていたため、グラッドストンへの大命降下が期待されていたが、グラッドストンを嫌うヴィクトリア女王は4月22日にハーティントン侯を召集して彼に組閣の大命を与えた。これに対してハーティントン侯は「グラッドストンなしに政府を成立させることはできない」と奉答したが、女王からはグラッドストンの意図を探るとともに女王が大命を与えることを拒否していることをグラッドストンに伝えるよう命じられた。ハーティントン侯はグランヴィル伯とも相談の上、女王が拒否している件はグラッドストンに伝えず、自分の内閣に入閣する意思があるかどうかだけ聞いたが、グラッドストンは首相以外務める意思がないようだった。これを見て組閣を断念したハーティントン侯は4月23日にもグランヴィル伯とともに参内してグラッドストンに大命を与えるべきことを上奏した。女王は渋々ながらグラッドストンに組閣の大命を与えた。 こうしてグラッドストンが再度首相となり、自由党党首職もグラッドストンに譲ることとなった。
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