自由党政権で閣僚職歴任
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「アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)」の記事における「自由党政権で閣僚職歴任」の解説
大学在学中の1868年に祖父の死去により襲爵した。襲爵した爵位の中には連合王国貴族ローズベリー男爵位があったため、1871年2月から貴族院議員に列する。 ローズベリーの名が広く知られるようになったのは、1879年に自由党のウィリアム・グラッドストンが行った「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」によってであった。一連のベンジャミン・ディズレーリ政権批判においてローズベリーは資金提供と舞台演出を担当し、1880年総選挙(英語版)での勝利に貢献した。 選挙後発足した第2次グラッドストン内閣で1881年から1883年まで内務省政務次官(英語版)を務めた後、1885年に王璽尚書兼建設長官(英語版)として入閣した。1886年の第3次グラッドストン内閣では外務大臣として再び閣僚となった。 1890年に妻と死別してからしばらく政界から距離を置いていたが、ヴィクトリア女王らの説得もあって復帰し、1892年の第4次グラッドストン内閣で再度外務大臣に任じられた。外務大臣としての彼は、イギリスが占領下においていたエジプト王国からの撤兵に反対し、フランスやドイツとの勢力争いの舞台となっていたウガンダの排他的支配を主張した。1893年に仏泰戦争(英語版)でフランスがシャムに迫るとフランスとイギリスが衝突する可能性が高まったが、ローズベリーは硬軟合わせた交渉によりシャムを緩衝国として残すことで危機を解決した。また日清戦争後の1895年に起きた三国干渉では、イギリスは干渉に加わるべきでないと判断している。
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