自由党政権期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「自由党政権期」の解説
1905年12月にエドワードは自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに組閣の大命を与えた。バナマンは自由党ながら中産階級富裕層の出身で貴族階級に近い雰囲気があったので、エドワードとしてもお気に入りの政治家であった。 バナマン内閣は組閣後ただちに庶民院を解散し、1906年1月の総選挙に大勝し、庶民院多数派を得たが、野党保守党は保守党が半永久的に多数を占める貴族院から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。これにより自由党政権は野党保守党が納得しない立法は一切できなくなってしまった。 1908年2月に病に倒れたバナマンはエドワードが滞在中のフランス・ビアリッツで休養生活に入り、4月に至って同地でエドワードに辞表を提出した。エドワードがビアリッツを離れたがらなかったので、衆目の一致するバナマンの後継者ハーバート・ヘンリー・アスキスもビアリッツに行き、そこでエドワードから組閣の大命を受けた(外国の地で大命降下が行われることについては批判もあった)。 エドワードは、「成りあがり者」アスキスに対してはバナマンほど好感をもたなかった。アスキス首相が婦人参政権を考慮したり、怪しい経歴の人物に騎士(サー)の称号を与えようとした場合などには首相を叱責している。またアスキス内閣の急進派閣僚である財務大臣デビッド・ロイド・ジョージと通商長官ウィンストン・チャーチルの存在を強く憂慮していた。 1908年には財務大臣ロイド・ジョージの主導で保守党の了承も得て老齢年金法(英語版)が成立し、70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されることになった。 更にロイド・ジョージは1909年に有産者に増税を課す「人民予算(英語版)」を提出したが、野党保守党が「アカの予算」としてこれを徹底糾弾した。エドワードもロイド・ジョージの急進派思想を嫌っていたが、議会の混乱は望んでいなかったので、極端な反対行動に出ないよう保守党の説得にあたった。しかし功を奏せず、結局11月には保守党が多数を占める貴族院は人民予算を否決した。 これにより1910年1月に総選挙(英語版)となり、その結果庶民院はハング・パーラメントになったが、キャスティング・ボートを握ったアイルランド議会党(英語版)が「人民予算」を支持したため、引き続き人民予算の可決成立が目指され、その闘争の中でアスキス首相は3月29日に貴族院拒否権制限を盛り込んだ議会法案も庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた。 議会法案の貴族院送付をめぐって両党が睨みあう中の1910年5月6日にエドワードは崩御した。その後、ジョージ5世の即位から間もない1910年8月に至って議会法は成立している。
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