自由党政権の閣僚として
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「エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)」の記事における「自由党政権の閣僚として」の解説
保守党との隔絶を感じたダービー伯爵は、1880年初頭に自由党へ移籍した。第二次グラッドストン内閣(1880年-1885年)が成立すると入閣を要請されたが、所領運営が忙しいと断っていた。しかし外相グランヴィル伯爵からの説得を受け入れて、1882年から植民地大臣として入閣することになった。 帝国主義政策の抑止のために活動し、マフディーの反乱が発生したスーダンの問題ではグラッドストンのスーダン支配の放棄の方針を支持した。トランスヴァール共和国の再独立を認めるなど南アフリカへの宥和政策も進めた。南太平洋では南太平洋諸島植民地化を推し進める大英帝国自治領オーストラリアの野望を抑え込むことに尽くした。
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