ドイツ降伏後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:13 UTC 版)
「強制収容所 (ナチス)」の記事における「ドイツ降伏後」の解説
ナチス党本部にあったハーケンクロイツが爆破された後、今度は連合軍(米英仏ソ)によるドイツ軍捕虜の収容の手段として、また、ドイツ人追放の一環として、かつての欧州枢軸軍占領国に居たドイツ人民間人(民族ドイツ人)の多くが、各地の強制収容所に収容されることになった。これらの連合軍によるドイツ軍捕虜や、かつての被占領国による民族ドイツ人民間人の強制収容による人的被害は、一部の著名な事件(アイゼンハワー大統領が主導したライン河畔収容所、チェコのズデーテン地方における民族ドイツ人の大量虐殺など)を除いては、明らかにされていない。単にドイツ降伏後に約100万人ほどのドイツ軍捕虜と、各地の民族ドイツ人約200万人が死亡または行方不明になったと言う統計の中に含まれるのみである。 このようなドイツ人に対する処遇は、戦後の混乱期、米ソ冷戦が激化し、ドイツの西側占領地区(西ドイツ、西ベルリン)を反共防波堤として仕立てあげる必要に西側諸国が迫られるまで続いた。
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