1942年以降とは? わかりやすく解説

1942年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 05:52 UTC 版)

軍用機の命名規則 (日本)」の記事における「1942年以降」の解説

海軍機の制式名称1942年途中から物の名前による形式変わった命名基準機種ごとに以下のように定められた。陸軍機の「隼」や「疾風」などは愛称であるのに対し、これは制式名称である。 戦闘機甲戦)=風(強風烈風陣風など) 陸上・局戦闘機乙戦)=電、雷電紫電震電天雷など) 夜間戦闘機丙戦)=光(月光極光など) 偵察機=彩雲紫雲瑞雲景雲など) 攻撃機=山(天山連山深山南山泰山など) 爆撃機=星(彗星銀河流星明星など) 哨戒機=海・洋東海大洋など) 輸送機=空(蒼空など) 練習機=草木白菊秋草など) 特殊攻撃機 晴嵐橘花(これらは例外的命名特殊攻撃機特別攻撃機)=花(桜花藤花梅花など)

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1942年以降

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軍用機の命名規則 (日本)」の記事における「1942年以降」の解説

1942年に「号」の使用廃止され、2桁数字の「型」の呼称となった。2のうち上1機体改修、下1エンジンの変更意味するまた、改修が行われた場合は「型」の2桁数直後甲・乙・丙などを付けた。「零式艦上戦闘機五二丙型」は、零式艦上戦闘機の5種目機体改修2種目のエンジン装備した機体の、3回の小改修経た型であることを示す。なお改修型呼称略符号は、零式艦上戦闘機三二型二二型いずれもA6M3であるように、必ずしも連動してない場合がある。

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1942年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:36 UTC 版)

ネバダ (戦艦)」の記事における「1942年以降」の解説

着底したネバダ1942年昭和17年2月12日2月13日とも)に引き上げられ真珠湾応急修理実施した続いて4月下旬から、アメリカ西海岸ピュージェット・サウンド海軍工廠大修理をおこなう。副砲全て撤去して5インチ38口径連装両用砲を8基(片舷4基)増設煙突マストをはじめ上部構造物を造り変えるなど、徹底した改造により艦型一変した1943年昭和18年3月修理完了その後アリューシャン方面の戦い投入されるアッツ島攻略作戦 (Operation Landcrab) のためアラスカ経由してアッツ島に向かう。5月11日以降上陸した第7歩兵師団艦砲射撃支援中、僚艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) が伊31などに襲撃されるが、アメリカ艦隊被害はなかった。 6月にはノーフォーク海軍工廠近代化改修が行われた。 続いてノルマンディー上陸作戦支援のため大西洋転戦する。1944年昭和19年4月イギリス海域到着した6月6日の上作戦当日ネバダシェルブール半島防衛陣地に対して支援射撃行い25日まで継続した海岸からの反撃27回にも及んだが、ネバダ砲撃変わらず継続された。 続いてネバダを含むアメリカ戦艦部隊イギリス戦艦ラミリーズ (HMS Ramillies) 、自由フランス軍戦艦ロレーヌ (cuirassé Lorraine) および巡洋艦複数隻や護衛部隊は、フランス解放一環としてドラグーン作戦従事するプロヴァンスの上陸)。8月15日から9月27日までネバダ南フランスへの艦砲射撃を行う。トゥーロンをめぐる攻防戦では、トゥーロン軍港英語版フランス語版)を守る要塞砲撃ち合うサン=マンドリエ=シュル=メール設置され海岸砲台は、自沈したプロヴァンス級戦艦プロヴァンス (cuirassé Provence) から取り外された13.5インチ砲(英語版フランス語版)と砲塔再利用したものだった。その後アメリカ戻りニューヨークで主砲身を交換し太平洋戦線向かった1945年昭和20年2月16日硫黄島へ到着するネバダ硫黄島日本軍砲台砲撃加えた2月下旬には神風特別攻撃隊硫黄島包囲するアメリカ艦隊の攻撃し、空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が大破護衛空母ビスマルク・シー (USS Bismarck Sea, CVE-95) が沈没したが、ネバダ無事だった3月7日まで海兵隊の上作戦支援した硫黄島陥落すると、連合軍沖縄諸島駒を進めることにした。沖縄攻略作戦 (Operation Iceberg) を発動し南西諸島方面攻勢をかける3月24日沖縄侵攻前の砲撃が行われ、ネバダ射撃支援部隊(第54任務部隊)に所属していた。日本軍基地航空部隊反撃する3月26日以降日本陸軍特別攻撃隊大規模攻撃をおこなう。26日、第54任務部隊呂号第四十九潜水艦交戦したが、取り逃がした27日日本記録26日)、誠第32飛行隊(武剋隊、廣森達郎陸軍中尉もしくは赤心隊(鶴見四郎陸軍少尉)の九九式襲撃機または九九式軍偵察機突入11人が死亡し主砲塔にも被害受けた。この日はネヴァダの他に軽巡ビロクシ (USS Biloxi, CL-80) なども損傷している。4月5日には艦砲射撃の間に沿岸砲台との交戦損傷する。2名が行不明となった7日には戦艦大和第二水雷戦隊沖縄突入図ったが、大和部隊米軍機部隊第58任務部隊)の航空攻撃敗退したネバダ6月30日まで沖縄作戦行動行った後、7月10日から8月7日まで日本本土攻撃を行う第3艦隊護衛任務従事したネバダ第二次世界大戦戦功で7個の従軍星章受章した

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1942年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 14:28 UTC 版)

レナウン (巡洋戦艦)」の記事における「1942年以降」の解説

1942年から43年にかけて本国艦隊所属した後、レナウン東洋艦隊加わりインド洋派遣される。この時期海軍省欺瞞様式(Admiralty disruptive pattern)を用いた迷彩塗装を行うとともに271型、282型、284型及び285各種レーダー更新した1944年から45年にかけてセイロン島拠点として活動しイラストリアス級航空母艦などと共に日本海軍南西方面艦隊牽制した。 1945年昭和20年2月に入ると、高速艦を欧州海域補充すべくイギリス本国回航された。この際に、海軍省指定本国艦隊スタンダード迷彩(Admiralty Standard Home Fleet Scheme)を施された。 第二次世界大戦実戦投入された巡洋戦艦のうち、唯一生き残ったのがレナウンである。大戦後本国沿岸短期間活動し1948年昭和23年3月スクラップするべく英国鉄鋼コーポレーション英語版)(BISCO)に売却された。

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1942年(昭和17年)以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:12 UTC 版)

砲戦車」の記事における「1942年(昭和17年)以降」の解説

1942年(昭和17年)に一式中戦車後継となる新中戦車(甲)をベース山砲火砲旋回砲塔式に搭載した新砲戦車 ホチ計画されるが、1943年(昭和18年)に破棄され新たに対戦車戦闘重視した長砲身105砲を密閉固定戦闘室に搭載した砲戦車(甲)、ホニ対戦車戦闘中核担えるように改造した砲戦車(甲)が計画された。前者生産中に終戦迎えたため完成車体はない。後者戦車学校ホニ砲戦車化案を一部取り入れた車両であり、三式砲戦車として完成少数生産された。

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1942年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:53 UTC 版)

多摩 (軽巡洋艦)」の記事における「1942年以降」の解説

第五艦隊1942年昭和17年1月以後作戦は、アメリカ機動部隊捕捉のために日本の東海上哨戒主任になった。第21戦隊21日横須賀出港し本州東方海上哨戒26日厚岸入港した2月1日厚岸発、哨戒行い8日厚岸着。11日釧路移動、翌12日釧路発、千島カムチャッカ方面哨戒行い 15日幌筵島着。翌16日幌筵島発、哨戒行い20日厚岸着。20日ラバウル方面アメリカ機動部隊来襲したため木曽21日厚岸出港し哨戒任務就いたが、多摩機関故障のため厚岸に留まった。 3月4日アメリカ機動部隊南鳥島攻撃同日21戦隊厚岸出港し哨戒に向かうが、無線情報などからアメリカ機動部隊待避したと判断され6日哨戒区域撤収し8日横須賀帰着した10日夜に敵機部隊出撃らしき無線情報入り横須賀入渠中の木曽と(機関修理中の)多摩12日午後3時出港14日哨戒区域着き哨戒を行う。17日になり機動部隊本土来襲は無いと判断され、第21戦隊哨戒区域撤収19日横須賀帰投した。24日木更津沖に移動26日同地出撃哨戒活動行い4月5日厚岸到着した3月10日附で北方部隊編入され那智4月11日厚岸到着第五艦隊司令長官同日旗艦那智変更した4月18日第16任務部隊東京・横浜大阪・名古屋神戸空襲した(ドーリットル空襲)。厚岸に在泊していた多摩は 翌19日同地発、敵機部隊東方待避判断され那智と第21戦隊23日まで哨戒部隊支援多摩25日大湊帰着した29日大湊発、翌30日厚岸着。5月4日厚岸発、哨戒行い10日厚岸着、同日同地発、18日大湊着。26日大湊から川内湾(陸奥湾)に移動した6月AL作戦アリューシャン攻略)に参加第二十一戦隊駆逐艦3隻などとともにAOB攻略部隊AOBキスカとなったAOB攻略部隊5月28日陸奥海湾出港して幌筵移動し6月2日同地より出撃キスカ島7日陸戦隊上陸開始し多摩8日午前2時25キスカ到着早朝には陸戦隊要地占領した多摩12日AOB攻略部隊から離れ主隊(全作戦支援)に編入13日キスカ出港し敵艦隊の邀撃のために洋上警戒待機24日川内湾に帰投した(第21戦隊那智23日帰投木曽多摩と同じ24日帰投)。 アメリカ軍大型機によるキスカ島爆撃6月12日開始され潜水艦による反撃開始両島占領以降北方部隊防衛力強化と、そのための輸送主な作戦になった6月28日多摩川内湾を出港敵艦隊の来襲備え第2次邀撃作戦参加した。この時の行動はっきりしないが、主隊(多摩を含む)は29日8時に北緯4120分・東経143度、30日0時北緯46度・東経162度との資料が残る。7月13日までに配備撤収し多摩16日横須賀帰港した横須賀海軍工廠修理実施し8月2日出港6日大湊到着した8月7日アメリカ軍ツラギ島ガダルカナル島上陸し反撃開始北方でも8日キスカ島アメリカ軍水上部隊砲撃受けた多摩を含む第21戦隊8日大湊発、11日幌筵島進出し12日同地出撃した。同日更に本州東方海上不時着した水上偵察機発見報告があり(戦後の調査ではアメリカ側活動の記録無く誤報とされる)、多摩らは南下して索敵したが、敵を認めず16日大湊帰着した18日から24日陸奥湾訓練実施した28日水上偵察機アトカ島ナザン湾にアメリカ軍軽巡洋艦等の発見報告多摩を含む主隊は29日大湊出港して9月2日幌筵島進出した。翌3日呂62から敵巡洋艦発見報告があり、同日 多摩を含む主隊は幌筵島出撃してアッツ島南西海面進出したが、敵を認めず13日撤収18日大湊帰着した10月20日アッツ島の再占領発令され挺身輸送部隊とされた多摩木曽10月21日大湊発、25日幌筵島進出した27日第一水雷戦隊(阿武隈等)と同地発、29日アッツ島到着し千島要塞歩兵隊米川部隊主力輸送した30日アッツ島発、幌筵島経由11月4日大湊帰着した14日大湊発、15日小樽着、17日小樽発、21日幌筵島着。24日セミチ攻略部隊乗せたもんとりーる丸、八幡丸護衛して初霜と共に幌筵島発、作戦延期のため12月2日幌筵島帰着した12月は主に同地停泊していた。 1943年昭和18年1月6日幌筵島発、9日横須賀帰港し2月6日まで横須賀整備などを行った(うち1月13日から18日横浜船渠入渠)。2月1日那智横須賀入港し第五艦隊旗艦多摩変更した(那智佐世保修理のため)。多摩6日横須賀発、9日大湊着。22日旗艦摩耶渡し多摩木曽と共に主隊援護部隊(輸送援護敵艦撃滅任務)とされ、23日大湊発、27日幌筵島進出した3月7日多摩を含む主隊援護部隊幌筵海峡出撃、第21船団(イ船団)と護衛部隊(第1水雷戦隊)と共にアッツ島目指し船団10日アッツ島食糧弾薬人員等を揚陸し、13日出撃全部隊は幌筵海峡帰着した(第1次輸送)。 3月23日第五艦隊重巡洋艦那智摩耶軽巡洋艦多摩阿武隈駆逐艦雷・電薄雲初霜若葉は、アッツ島への増援部隊アッツ島守備隊への補給物資載せた輸送船3隻を護衛して幌筵島出発した3月26日日本艦隊は、遊弋していた軽巡洋艦リッチモンド重巡洋艦ソルトレイクシティ駆逐艦4隻からなる米海軍第16.6任務群と遭遇しアッツ島沖海戦始まった4時間の砲雷撃戦の末、ソルトレイクシティ駆逐艦1隻が被弾した。他の駆逐艦無傷であった多摩砲弾136発と魚雷4発を放ち、2発被弾してカタパルト損傷し乗員1人負傷した旗艦那智小破し、細萱中将撤退決定アッツ島への輸送中止され3月28日幌筵島帰投した。海戦指揮不手際により細萱中将第五艦隊司令長官更迭され後任河瀬四郎中将就任した多摩4月26日まで幌筵島待機29日幌筵発、5月4日舞鶴入港し舞鶴海軍工廠修理行った。そのため、多摩アッツ島の戦いには参加していない。20日舞鶴発、23日片岡湾(幌筵島)へ戻り6月18日まで幌筵島所在する同日出港21日大湊帰着7月1日大湊発、5日幌筵進出した7月7日キスカ島撤退作戦では、撤退参加するのに多摩機関では心許ないとして、幌筵島待機させられた。この日はキスカ島到着前に晴れたため、突入断念した7月25日再出撃の際は、「督戦のため」と称して河瀬四郎司令長官始めとする第五艦隊司令部多摩座乗し、実行部隊同行した多摩7月31日幌筵島帰投した。8月5日附で第12航空戦隊と第5艦隊北東方面艦隊編成され多摩を含む第5艦隊もその所属となった多摩8月25日まで幌筵島にあり、30日大湊帰着した

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