1942年以降
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「軍用機の命名規則 (日本)」の記事における「1942年以降」の解説
海軍機の制式名称は1942年の途中から物の名前による形式に変わった。命名基準は機種ごとに以下のように定められた。陸軍機の「隼」や「疾風」などは愛称であるのに対し、これは制式名称である。 戦闘機(甲戦)=風(強風、烈風、陣風など) 陸上・局地戦闘機(乙戦)=電、雷(雷電、紫電、震電、天雷など) 夜間戦闘機(丙戦)=光(月光、極光など) 偵察機=雲(彩雲、紫雲、瑞雲、景雲など) 攻撃機=山(天山、連山、深山、南山、泰山など) 爆撃機=星(彗星、銀河、流星、明星など) 哨戒機=海・洋(東海、大洋など) 輸送機=空(蒼空など) 練習機=草木(白菊、秋草など) 特殊攻撃機 晴嵐、橘花(これらは例外的命名)特殊攻撃機(特別攻撃機)=花(桜花、藤花、梅花など)
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1942年以降
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「軍用機の命名規則 (日本)」の記事における「1942年以降」の解説
1942年に「号」の使用は廃止され、2桁数字の「型」の呼称となった。2桁のうち上1桁が機体の改修、下1桁がエンジンの変更を意味する。また、小改修が行われた場合は「型」の2桁数字直後に甲・乙・丙などを付けた。「零式艦上戦闘機五二丙型」は、零式艦上戦闘機の5種目の機体改修に2種目のエンジンを装備した機体の、3回の小改修を経た型であることを示す。なお改修型の呼称と略符号は、零式艦上戦闘機の三二型と二二型がいずれもA6M3であるように、必ずしも連動していない場合がある。
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1942年以降
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着底したネバダは1942年(昭和17年)2月12日(2月13日とも)に引き上げられ、真珠湾で応急修理を実施した。続いて4月下旬から、アメリカ西海岸のピュージェット・サウンド海軍工廠で大修理をおこなう。副砲を全て撤去して5インチ38口径連装両用砲を8基(片舷4基)増設、煙突やマストをはじめ上部構造物を造り変えるなど、徹底した大改造により艦型が一変した。1943年(昭和18年)3月、修理完了。その後、アリューシャン方面の戦いに投入される。アッツ島攻略作戦 (Operation Landcrab) のためアラスカを経由してアッツ島に向かう。5月11日以降、上陸した第7歩兵師団を艦砲射撃で支援中、僚艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) が伊31などに襲撃されるが、アメリカ艦隊に被害はなかった。 6月にはノーフォーク海軍工廠で近代化改修が行われた。 続いてノルマンディー上陸作戦支援のため大西洋に転戦する。1944年(昭和19年)4月にイギリス海域に到着した。6月6日の上陸作戦当日、ネバダはシェルブール半島の防衛陣地に対して支援射撃を行い、25日まで継続した。海岸からの反撃は27回にも及んだが、ネバダの砲撃は変わらず継続された。 続いてネバダを含むアメリカ戦艦部隊、イギリス戦艦ラミリーズ (HMS Ramillies) 、自由フランス軍の戦艦ロレーヌ (cuirassé Lorraine) および巡洋艦複数隻や護衛部隊は、フランス解放の一環としてドラグーン作戦に従事する(プロヴァンスへの上陸)。8月15日から9月27日までネバダは南フランスへの艦砲射撃を行う。トゥーロンをめぐる攻防戦では、トゥーロン軍港(英語版、フランス語版)を守る要塞砲と撃ち合う。サン=マンドリエ=シュル=メールに設置された海岸砲台は、自沈したプロヴァンス級戦艦のプロヴァンス (cuirassé Provence) から取り外された13.5インチ砲(英語版、フランス語版)と砲塔を再利用したものだった。その後アメリカに戻り、ニューヨークで主砲身を交換し、太平洋戦線へ向かった。 1945年(昭和20年)2月16日に硫黄島へ到着する。ネバダは硫黄島の日本軍砲台に砲撃を加えた。2月下旬には神風特別攻撃隊が硫黄島を包囲するアメリカ艦隊の攻撃し、空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が大破、護衛空母ビスマルク・シー (USS Bismarck Sea, CVE-95) が沈没したが、ネバダは無事だった。3月7日まで海兵隊の上陸作戦を支援した。 硫黄島が陥落すると、連合軍は沖縄諸島に駒を進めることにした。沖縄攻略作戦 (Operation Iceberg) を発動し、南西諸島方面に攻勢をかける。3月24日に沖縄侵攻前の砲撃が行われ、ネバダは射撃支援部隊(第54任務部隊)に所属していた。日本軍は基地航空部隊で反撃する。3月26日以降、日本陸軍特別攻撃隊が大規模攻撃をおこなう。26日、第54任務部隊は呂号第四十九潜水艦と交戦したが、取り逃がした。27日(日本記録26日)、誠第32飛行隊(武剋隊、廣森達郎陸軍中尉)もしくは赤心隊(鶴見国四郎陸軍少尉)の九九式襲撃機または九九式軍偵察機が突入、11人が死亡し主砲塔にも被害を受けた。この日はネヴァダの他に軽巡ビロクシ (USS Biloxi, CL-80) なども損傷している。4月5日には艦砲射撃の間に沿岸砲台との交戦で損傷する。2名が行方不明となった。7日には戦艦大和と第二水雷戦隊が沖縄突入を図ったが、大和部隊は米軍機動部隊(第58任務部隊)の航空攻撃で敗退した。ネバダは6月30日まで沖縄で作戦行動を行った後、7月10日から8月7日まで日本本土攻撃を行う第3艦隊の護衛任務に従事した。 ネバダは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。
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1942年以降
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「レナウン (巡洋戦艦)」の記事における「1942年以降」の解説
1942年から43年にかけて本国艦隊に所属した後、レナウンは東洋艦隊に加わり、インド洋に派遣される。この時期に海軍省欺瞞様式(Admiralty disruptive pattern)を用いた迷彩塗装を行うとともに、271型、282型、284型及び285型各種レーダーに更新した。1944年から45年にかけてセイロン島を拠点として活動し、イラストリアス級航空母艦などと共に、日本海軍の南西方面艦隊を牽制した。 1945年(昭和20年)2月に入ると、高速艦を欧州海域に補充すべくイギリス本国に回航された。この際に、海軍省指定本国艦隊用スタンダード迷彩(Admiralty Standard Home Fleet Scheme)を施された。 第二次世界大戦で実戦投入された巡洋戦艦のうち、唯一生き残ったのがレナウンである。大戦後は本国沿岸で短期間活動し、1948年(昭和23年)3月にスクラップにするべく英国鉄鋼コーポレーション(英語版)(BISCO)に売却された。
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1942年(昭和17年)以降
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「砲戦車」の記事における「1942年(昭和17年)以降」の解説
1942年(昭和17年)に一式中戦車の後継となる新中戦車(甲)をベースに山砲級火砲を旋回砲塔式に搭載した新砲戦車 ホチが計画されるが、1943年(昭和18年)に破棄され、新たに対戦車戦闘を重視した長砲身105㎜砲を密閉固定戦闘室に搭載した新砲戦車(甲)、ホニを対戦車戦闘の中核を担えるように改造した砲戦車(甲)が計画された。前者は生産中に終戦を迎えたため完成車体はない。後者は戦車学校のホニの砲戦車化案を一部取り入れた車両であり、三式砲戦車として完成、少数が生産された。
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1942年以降
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「多摩 (軽巡洋艦)」の記事における「1942年以降」の解説
第五艦隊の1942年(昭和17年)1月以後の作戦は、アメリカ機動部隊捕捉のために日本の東方海上の哨戒が主任務になった。第21戦隊は21日横須賀を出港し、本州東方海上を哨戒、26日厚岸に入港した。2月1日厚岸発、哨戒を行い、8日厚岸着。11日釧路に移動、翌12日釧路発、千島・カムチャッカ方面の哨戒を行い 15日幌筵島着。翌16日幌筵島発、哨戒を行い20日厚岸着。20日ラバウル方面にアメリカ機動部隊が来襲したため木曽は21日厚岸を出港し哨戒任務に就いたが、多摩は機関故障のため厚岸に留まった。 3月4日アメリカ機動部隊が南鳥島を攻撃、同日第21戦隊は厚岸を出港し哨戒に向かうが、無線情報などからアメリカ機動部隊は待避したと判断され、6日哨戒区域を撤収し8日横須賀に帰着した。10日夜に敵機動部隊出撃らしき無線情報が入り、横須賀で入渠中の木曽と(機関修理中の)多摩は12日午後3時出港、14日哨戒区域に着き哨戒を行う。17日になり機動部隊の本土来襲は無いと判断され、第21戦隊は哨戒区域を撤収、19日横須賀に帰投した。24日木更津沖に移動、26日同地を出撃、哨戒活動を行い4月5日厚岸に到着した。3月10日附で北方部隊に編入された那智が4月11日に厚岸に到着、第五艦隊司令長官は同日旗艦を那智に変更した。 4月18日、第16任務部隊が東京・横浜・大阪・名古屋・神戸を空襲した(ドーリットル空襲)。厚岸に在泊していた多摩は 翌19日同地発、敵機動部隊は東方に待避と判断され、那智と第21戦隊は23日まで哨戒部隊を支援、多摩は25日大湊に帰着した。29日大湊発、翌30日厚岸着。5月4日厚岸発、哨戒を行い10日厚岸着、同日同地発、18日大湊着。26日大湊から川内湾(陸奥湾)に移動した。 6月、AL作戦(アリューシャン攻略)に参加。第二十一戦隊は駆逐艦3隻などとともにAOB攻略部隊(AOBはキスカ)となった。AOB攻略部隊は5月28日に陸奥海湾を出港して幌筵へ移動し、6月2日に同地より出撃。キスカ島は7日夜陸戦隊が上陸を開始し、多摩は8日午前2時25分キスカに到着、早朝には陸戦隊が要地を占領した。多摩は12日にAOB攻略部隊から離れ主隊(全作戦支援)に編入、13日キスカを出港し、敵艦隊の邀撃のために洋上で警戒待機、24日川内湾に帰投した(第21戦隊の那智は23日帰投、木曽は多摩と同じ24日に帰投)。 アメリカ軍の大型機によるキスカ島爆撃は6月12日に開始され、潜水艦による反撃も開始、両島占領以降の北方部隊は防衛力強化と、そのための輸送が主な作戦になった。6月28日多摩は川内湾を出港、敵艦隊の来襲に備え第2次邀撃作戦に参加した。この時の行動ははっきりしないが、主隊(多摩を含む)は29日8時に北緯41度20分・東経143度、30日0時に北緯46度・東経162度との資料が残る。7月13日までに配備を撤収し、多摩は16日横須賀に帰港した。横須賀海軍工廠で修理を実施し、8月2日出港。6日大湊に到着した。 8月7日アメリカ軍がツラギ島とガダルカナル島に上陸し反撃を開始、北方でも8日キスカ島がアメリカ軍水上部隊の砲撃を受けた。多摩を含む第21戦隊は8日大湊発、11日幌筵島に進出し、12日同地を出撃した。同日更に本州東方海上で不時着した敵水上偵察機発見の報告があり(戦後の調査ではアメリカ側に活動の記録が無く誤報とされる)、多摩らは南下して索敵したが、敵を認めず、16日大湊に帰着した。18日から24日は陸奥湾で訓練を実施した。28日水上偵察機がアトカ島ナザン湾にアメリカ軍軽巡洋艦等の発見を報告、多摩を含む主隊は29日大湊を出港して、9月2日幌筵島に進出した。翌3日、呂62から敵巡洋艦発見の報告があり、同日 多摩を含む主隊は幌筵島を出撃してアッツ島南西海面に進出したが、敵を認めず、13日撤収、18日大湊に帰着した10月20日アッツ島の再占領が発令され、挺身輸送部隊とされた多摩・木曽は 10月21日大湊発、25日幌筵島に進出した。27日第一水雷戦隊(阿武隈等)と同地発、29日アッツ島に到着し、千島要塞歩兵隊米川部隊主力を輸送した。30日アッツ島発、幌筵島経由で11月4日大湊に帰着した。14日大湊発、15日小樽着、17日小樽発、21日幌筵島着。24日セミチ島攻略部隊を乗せたもんとりーる丸、八幡丸を護衛して初霜と共に幌筵島発、作戦延期のため12月2日幌筵島に帰着した。12月は主に同地に停泊していた。 1943年(昭和18年)1月6日幌筵島発、9日横須賀に帰港し、2月6日まで横須賀で整備などを行った(うち1月13日から18日は横浜船渠で入渠)。2月1日那智が横須賀に入港し、第五艦隊旗艦を多摩に変更した(那智は佐世保で修理のため)。多摩は6日横須賀発、9日大湊着。22日旗艦を摩耶に渡し、多摩は木曽と共に主隊援護部隊(輸送援護と敵艦隊撃滅が任務)とされ、23日大湊発、27日幌筵島に進出した。3月7日多摩を含む主隊援護部隊は幌筵海峡を出撃、第21船団(イ船団)と護衛部隊(第1水雷戦隊)と共にアッツ島を目指し、船団は10日アッツ島で食糧弾薬、人員等を揚陸し、13日に出撃全部隊は幌筵海峡に帰着した(第1次輸送)。 3月23日、第五艦隊の重巡洋艦那智・摩耶、軽巡洋艦多摩・阿武隈、駆逐艦雷・電・薄雲・初霜・若葉は、アッツ島への増援部隊とアッツ島守備隊への補給物資を載せた輸送船3隻を護衛して幌筵島を出発した。3月26日、日本艦隊は、遊弋していた軽巡洋艦リッチモンド・重巡洋艦ソルトレイクシティ・駆逐艦4隻からなる米海軍第16.6任務群と遭遇し、アッツ島沖海戦が始まった。4時間の砲雷撃戦の末、ソルトレイクシティと駆逐艦1隻が被弾した。他の駆逐艦は無傷であった。多摩は砲弾136発と魚雷4発を放ち、2発被弾して、カタパルトを損傷し乗員1人が負傷した。旗艦那智が小破し、細萱中将は撤退を決定、アッツ島への輸送も中止され、3月28日に幌筵島に帰投した。海戦の指揮の不手際により細萱中将は第五艦隊司令長官を更迭され、後任に河瀬四郎中将が就任した。 多摩は4月26日まで幌筵島で待機、29日幌筵発、5月4日に舞鶴に入港し、舞鶴海軍工廠で修理を行った。そのため、多摩はアッツ島の戦いには参加していない。20日舞鶴発、23日に片岡湾(幌筵島)へ戻り、6月18日まで幌筵島に所在する。同日出港、21日大湊に帰着、7月1日大湊発、5日幌筵に進出した。7月7日のキスカ島撤退作戦では、撤退に参加するのに多摩の機関では心許ないとして、幌筵島で待機させられた。この日はキスカ島到着前に霧が晴れたため、突入を断念した。7月25日の再出撃の際は、「督戦のため」と称して河瀬四郎司令長官を始めとする第五艦隊司令部が多摩に座乗し、実行部隊に同行した。 多摩は7月31日幌筵島に帰投した。8月5日附で第12航空戦隊と第5艦隊で北東方面艦隊が編成され、多摩を含む第5艦隊もその所属となった。多摩は8月25日まで幌筵島にあり、30日大湊に帰着した。
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