1942年後半 - 1943年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 01:39 UTC 版)
「ウェーク島の戦い」の記事における「1942年後半 - 1943年」の解説
日本軍は中部太平洋方面の防衛強化のため、陸軍部隊をこの方面に派遣することとなった。このうち、ウェーク島には山県栗花生少将の独立混成第21旅団のうち歩兵第170連隊第2大隊をウェーク島に、主力をグアムに移動することとなった。大隊は10月3日にウェーク島に到着して第65警備隊の指揮下に入った。この時点でのウェーク島の防御陣地は退避壕や申し訳程度の陣地しかなかったが、大隊到着後に、先述した鹵獲ブルドーザーやクレーンなどを活用して、2年近くかけて強固な陣地を構築した。1942年12月10日付で、第65警備隊司令に酒井原繁松大佐が着任し、以後終戦までウェーク島で指揮を執る事となる。 1943年に入り、歩兵第170連隊第2大隊を基幹に南海第3守備隊が編成され、増強部隊も送られる事となった。このうち、砲兵中隊と速射砲部隊が7月27日に到着し、次いでラバウルから戦車部隊と歩兵部隊もウェーク島に移動することとなった。しかし、ラバウルからの部隊はアメリカ軍の攻撃により打撃を受け、残った部隊は態勢を立て直した上で9月5日にウェーク島に到着した。 一方のアメリカ軍も、緒戦期の機動部隊の奇襲以降も断続的にウェーク島に対して定期的に爆撃を行った。1943年に入ると、1月26日と5月16日、7月8日、7月25日および7月27日に、ミッドウェー島からのB-24が爆撃を行った。のちの第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、パイロットとしてウェーク島を攻撃したことがある。
※この「1942年後半 - 1943年」の解説は、「ウェーク島の戦い」の解説の一部です。
「1942年後半 - 1943年」を含む「ウェーク島の戦い」の記事については、「ウェーク島の戦い」の概要を参照ください。
- 1942年後半 - 1943年のページへのリンク