1942年後半 - 1944年
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「フェニックス (軽巡洋艦)」の記事における「1942年後半 - 1944年」の解説
艦長がジョゼフ・R・レッドマン大佐に代わったフェニックスは、1942年の後半を第44任務部隊(英語版)の一艦として過ごした。フェニックスは駆逐艦ヘルム(英語版) (USS Helm, DD-388) 、マグフォード(英語版) (USS Mugford, DD-389) およびパターソン(英語版) (USS Patterson, DD-392) とともにリリプット作戦(英語版) に参加し、豪州海軍の軽巡洋艦ホバート (HMAS Hobart) および付属の駆逐艦と交替でニューギニア島南方海域での船団護衛を行った。作戦終了後、フェニックスはブリスベンを経て1943年7月にフィラデルフィア海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った。オーバーホール後、フェニックスはコーデル・ハル国務長官をカサブランカまで乗せた。つづいてダグラス・マッカーサー大将の指揮下で行動する第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に配備された。連合軍は、とりあえずニューブリテン島ラバウルを攻略するか孤立させる方向で進撃した。 12月26日、フェニックスは姉妹艦ナッシュビル (USS Nashville, CL-43) とともにニューブリテン島西端のグロスター岬にある日本軍施設を4時間にわたって攻撃した。このあと連合軍がグロスター岬上陸に上陸した(グロスター岬の戦い)。ダンピア海峡を確保した連合軍のうち、マッカーサー軍はパプアニューギニア経由でフィリピンを目指した。 1944年1月25日から26日の夜にはパプアニューギニアのマダンとアレクシスハーフェンの日本軍に対して夜間攻撃を行った。続いてフェニックスは、2月29日からのアドミラルティ諸島の戦いに参加し、ロスネグロス島に上陸して威力偵察を行う第1騎兵師団を支援を行ったが、第1騎兵師団は島で抵抗に遭わなかったのでそのまま占領した。一連の戦いの最中、フェニックスはキンケイド提督の旗艦であった。南西太平洋方面総司令官マッカーサー大将は「作戦がきわどい性質のもので、情勢により即座に決断を下す必要」を感じたので、フェニックスに乗艦して戦いを観戦していた。 ラバウルを孤立させた連合軍は、パプアニューギニアの北海岸を西進した。3月4日と3月7日、フェニックスはナッシュビルおよび豪州海軍の重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) とともにアドミラルティ諸島内のハウエイ島に対して艦砲射撃を行った。この島にある日本軍の大砲は、マヌス島に対する大きな脅威になると考えられていた。3隻が攻撃を始めた時には日本軍の反撃は激しかったものの、3隻からの砲弾が次第に命中するに及んで反撃は沈黙していった。 連合軍はニューギニア島北岸での作戦を続行した。4月22日からのホーランジアの戦いで、アメリカ軍は大部隊で上陸作戦を敢行した。フェニックスはフルボント湾(英語版)に入って砲撃を行い、上陸部隊の進撃を容易にした。ホランジアにいた第九艦隊は壊滅した。4月29日から30日の夜にかけてはパプア州ワクデ島とサワールのにある日本軍の飛行場と不時着場に対して艦砲射撃を行い、この方面での航空反撃の可能性を削り取った。5月17日、連合軍はワクデ地区に上陸し、2日後にワクデ守備隊は玉砕した。
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