1942年夏、リビア
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「ビル・ハケイムの戦い」の記事における「1942年夏、リビア」の解説
1942年初頭、キレナイカ西部での敗北後、イギリス第8軍(英語版)はトブルク要塞近郊のリビアで枢軸軍と激突した。1942年5月、リビアにおけるドイツ軍の攻撃計画が再開し、スエズ運河に向けて進撃を開始した。この計画はビル・ハケイムの戦いまでは成功しているかのように見えたが、結局、ロンメルの中東への野望を頓挫させることとなった。 アルベルト・ケッセルリンク大将率いるドイツ空軍は東部戦線からアフリカに移動してヘラクレス作戦を開始し、シチリア島からイギリス軍が駐屯するマルタ島へ爆撃を開始して、マルタ島攻略の準備攻撃を行った。イタリア海軍のフロッグマンにより、アレキサンドリア港において、2隻のイギリス戦艦、クイーン・エリザベス、ヴァリアントが着底させられ、また輸送船も撃沈された。これらの攻撃と太平洋戦争が勃発したことにより、イギリス軍は東南アジアへ戦力を送らなければならなくなったため、枢軸国は補給と増援のアフリカ派遣が以前より容易になっていた。 ドイツ・イタリア枢軸軍司令官エルヴィン・ロンメルは攻撃準備を行う際、これらの複数情報を信用に足るとした。アプヴェーアはイギリス軍の暗号文を困難の末に解読に成功し、米軍に送られている通信にイギリス軍の現状ついて述べられていることが判明した。また、アプヴェーアはサラーム作戦(英語版)を発動、諜報員ヨハンネス・エプラー(英語版)をカイロに送り込み、ホルヒ通信監視会社(Horch Radio surveillance company)の支援を受けた。 この時、ドイツ・イタリア枢軸軍には将兵約90,000名、戦車575両が配属されており、対するイギリス軍には将兵約100,000名と戦車994両が配属されていた。ロンメルには一案があり、また配下の部隊は経験も豊富で、砂漠戦はイギリス軍よりも上手であった。さらに、ロンメル配下の戦車、火砲はイギリス軍よりも性能が上であった。 ロンメルの作戦は、イギリス軍を南へ迂回、その後、イギリス第8軍(司令官ニール・リッチー大将)を分断するために、北進するものだった。5月26日、ロンメルは攻撃を開始、スエズ運河を目指した。 枢軸軍の左側面は第10(イタリア語版)、第21イタリア軍団(イタリア語版)(第60歩兵師団「サブラタ」(イタリア語版)、第102自動車化師団「トレント」(イタリア語版)、第27歩兵師団「ブレシア」(イタリア語版)、第17歩兵師団「パビア」(イタリア語版))と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ドイツ第150歩兵旅団[要出典]が担当し、イギリス連邦軍を誘い出すためにトブルクの海岸側、ガザラへの攻撃を開始した。同時に、ロンメルはイギリス軍防衛線の南北に部隊を配置、南には最良の師団である、第15(ドイツ語版)、第21装甲師団(ドイツ語版)、第90軽歩兵師団(ドイツ語版)、イタリア第132戦車師団「アリエテ」(イタリア語版)、イタリア第101自動車化師団「トリエステ」(イタリア語版)を配置した。ロンメルはこの作戦とトブルクの早期制圧によって、エジプトへの侵入することを望んでいた。 それに対するイギリス第8軍司令官、ニール・リッチーはドイツ軍が直接、トブルクを攻撃すると考えていた。そこでリッチーはイタリア2個師団の前面に、4個師団と2個旅団を展開させたが、南側の戦線には2個師団と自由フランス第1旅団を含む3個師団を展開させるに留めたため、イギリス第8軍はすでにドイツ軍の罠に引っ掛かっていた。
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