1942年中盤以降の行動とは? わかりやすく解説

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1942年中盤以降の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 00:16 UTC 版)

白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1942年中盤以降の行動」の解説

連合軍1942年昭和17年8月7日ガダルカナル島フロリダ諸島上陸しガダルカナル島の戦い始まった連合艦隊B作戦中止し南東方面部隊編成した大本営陸軍部海軍部)と現地陸海軍第十一航空艦隊第八艦隊第十七軍)は各種状況検討しグアム島所在一木支隊と、パラオ諸島所在歩兵35旅団川口支隊)および海軍陸戦隊ガ島奪回のため投入することにした。三水戦は、川口支隊輸送船護衛命じられた。 B作戦のためマレー半島メルギー進出していた各部隊第七戦隊三水戦、第2駆逐隊、第15駆逐隊タンカー2隻)は、作戦中止によりトラック泊地に向け移動開始したスラウェシ島ミンダナオ島経由してトラック泊地むかった8月19日午後2時、外南洋部隊指揮官第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)は、川口支隊輸送船ガ島輸送護衛三水戦がおこなうよう下令した。 ガダルカナル島ではアメリカ海兵隊ヘンダーソン飛行場整備急いでおり、8月20日急降下爆撃機戦闘機進出したガ島上陸した一木支隊先遣隊(約900名)は飛行場奪回目指したが、イル川渡河戦全滅態となり一木清直大佐戦死した8月24日第二次ソロモン海戦日本海軍機動部隊米軍機部隊撃滅失敗し連合軍ヘンダーソン基地拠点に同島周辺制空権握っていた。一方三水戦(川内夕霧朝霧天霧白雲)は8月23日トラック泊地到着した歩兵35旅団長川口清健陸軍少将率い川口支隊約5,000名を乗せた輸送船2隻(佐渡丸浅香丸)は、既にトラック泊地到着していた。24日三水戦(川内第20駆逐隊)は川口支隊輸送船2隻を護衛しトラック泊地出発した。だが25日ガダルカナル島向かった第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)と輸送船団が、ヘンダーソン基地SBD ドーントレスエスピリトゥサント島B-17重爆から攻撃される駆逐艦睦月」と輸送船金龍丸」が沈没し軽巡神通」も中破一木支隊第二梯団海軍陸戦隊揚陸断念する事態となっていた。連合艦隊一木支隊第二梯団ガ島直行中止し軽快艦艇によるガ島急速輸送鼠輸送」の実施決定した8月26日午前7時50分南東方面部隊指揮官十一艦長官)は三水戦にガ島直行中止と、川口支隊一個大隊27日ガ島揚陸命じた。また外南洋部隊および同部隊増援部隊指揮官第二水雷戦隊司令官田中頼三海軍少将)にも鼠輸送27日ガ島揚陸命じた南東方面部隊命令をうけた三水戦と川口支隊協議をおこなう。26日夜半洋上(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯1度5分 東経15635分 / 北緯1.083度 東経156.583度 / 1.083; 156.583)で陸兵一個大隊600名を輸送船から第20駆逐隊移乗させ、軽巡川内」(第三水雷戦隊旗艦)が輸送船2隻(佐渡丸浅香丸)を護衛してラバウル送り高速駆逐艦4隻は27日夜にガ島揚陸をおこなう事になった8月27日朝、第20駆逐隊飛行艇触接された。外南洋部隊指揮官第八艦隊長官)は日本軍基地航空隊第十一航空艦隊)のヘンダーソン基地空襲不徹底判断しており「川口支隊揚陸28日夜に変更し第20駆逐隊ブーゲンビル島ショートランド泊地寄港、第24駆逐隊司令村上暢之助大佐駆逐艦3隻と合同せよ」と下令した。この時、第20駆逐隊サンタイサベル島北方沖まで移動しており、ショートランド泊地寄港する燃料不足する状態だった。そのため第20駆逐隊司令山田雄二大佐は、イサベル島北側適宜待機し28日午後にフロリダ諸島周辺合流する方針伝えた8月28日午前6時、第24駆逐隊司令指揮下の輸送隊海風江風磯風)と、第六戦隊司令官五藤存知少将指揮する支援部隊青葉古鷹)はショートランド泊地出撃した。第20駆逐隊は、フロリダ諸島沖で第24駆逐隊合流すべく南下開始した燃料不足のため低速行動開始したが、これが敵機空襲を受ける要因となった午前8時、第24駆逐隊司令第20駆逐隊対しガ島での揚陸方法下令した。直後午前8時20分、第20駆逐隊B-17触接される。午後2時30分、イサベル島東海上のラモス付近ヘンダーソン飛行場から飛来しSBDドーントレス米軍記録11機)の攻撃受けた攻撃指揮官アメリカ海兵隊リチャード・C・マングラム中佐であったという。ドーントレス1機撃墜引き換えに、第20駆逐隊大損害をうける。「白雲」は軽負傷2名だったが機関室浸水により航行不能陥った。また「朝霧」が沈没、「夕霧」も至近弾で損傷し山田司令らが戦死した無傷なのは「天霧」だけだった第20駆逐隊苦境青葉偵察機報告している。 大損害をうけた第20駆逐隊ガ島揚陸断念した。「白雲」は「天霧」に曳航され、「夕霧と共にイサベル島北側からショートランド向かった救援駆逐艦陽炎」(二水戦、第15駆逐隊)は8月29日昼に第20駆逐隊合流し30日朝に4隻でショートランド泊地到着した。この状況受けて、第24駆逐隊司令指揮下3隻(海風江風磯風)のガ島行を中止した連合艦隊外南洋部隊は第24駆逐隊ガ島突入命じたが、24司令独断引き返した輸送作戦失敗し当時連合艦隊参謀長宇垣纏少将陣中日誌戦藻録』に「 別働隊たる二十四駆逐隊は敵に発見せらるる所なかりしも、右報に依り引返し第八艦隊強行下令、又之を取消す等の挙に出で茲に上陸第一日は見事に失敗せり。如何にするとも此敵機壊滅するに非ざれば目的達し難し 」と記述した連合艦隊第20駆逐隊陸兵健在の「陽炎」と「天霧」に移すよう命令していたので、外南洋部隊指揮官敷設艦津軽」に「白雲曳航命じたこのあと損傷艦白雲夕霧)はトラック泊地での応急修理内地回航下令された。 10月1日第20駆逐隊解隊された。「白雲」と「夕霧」は共に呉鎮守府警備駆逐艦となり、呉鎮守府部隊編入される。2隻は修理のため日本に戻ることになった10月7日軽巡洋艦神通」と駆逐艦白雲」は入泊した。翌8日呉軍港に到着した。「白雲」の修理呉海軍工廠と、藤永田造船所行われたこの頃藤永田造船所では夕雲型駆逐艦大波」を建造していた。11月15日平山敏夫少佐白雲駆逐艦長大波艤装員長兼務命じられた。11月23日大波艤装事務所事務開始する12月20日吉川潔中佐大波艤装員長任命される平山少佐白雲駆逐艦長大波艤装員長)は兼務解かれた。 なお『戦史叢書83巻』200-202ページでは『 1942年10月11日-12日サボ島沖海戦に「白雲」が参加し輸送隊の「夏雲」が沈没したあと、「白雲」と「朝雲」が「叢雲」の救援処分行った 』としている。このうち白雲」は修理必要な状態であり、実際にサボ島沖海戦参加したのは「白雪であった。「白雲」と「叢雲」は吹雪型駆逐艦、「朝雲」と「夏雲」は朝潮型駆逐艦である。さらに「白雲」と「白雪」は字体似ている。このサボ島沖海戦駆逐艦吹雪」が沈没しネームシップ失った吹雪型駆逐艦は「白雪駆逐艦」に改称された。

※この「1942年中盤以降の行動」の解説は、「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「1942年中盤以降の行動」を含む「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。

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