1942年中盤以降の行動
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「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1942年中盤以降の行動」の解説
連合軍は1942年(昭和17年)8月7日にガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。連合艦隊はB作戦を中止し、南東方面部隊を編成した。大本営(陸軍部、海軍部)と現地陸海軍(第十一航空艦隊、第八艦隊、第十七軍)は各種状況を検討し、グアム島所在の一木支隊と、パラオ諸島所在の歩兵第35旅団(川口支隊)および海軍陸戦隊をガ島奪回のため投入することにした。三水戦は、川口支隊の輸送船の護衛を命じられた。 B作戦のためマレー半島メルギーに進出していた各部隊(第七戦隊、三水戦、第2駆逐隊、第15駆逐隊、タンカー2隻)は、作戦中止によりトラック泊地に向け移動を開始した。スラウェシ島やミンダナオ島を経由してトラック泊地にむかった。8月19日午後2時、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)は、川口支隊輸送船のガ島輸送と護衛を三水戦がおこなうよう下令した。 ガダルカナル島ではアメリカ海兵隊がヘンダーソン飛行場の整備を急いでおり、8月20日に急降下爆撃機と戦闘機が進出した。ガ島に上陸した一木支隊先遣隊(約900名)は飛行場奪回を目指したが、イル川渡河戦で全滅状態となり一木清直大佐も戦死した。8月24日の第二次ソロモン海戦で日本海軍機動部隊は米軍機動部隊の撃滅に失敗し、連合軍はヘンダーソン基地を拠点に同島周辺の制空権を握っていた。一方、三水戦(川内、夕霧、朝霧、天霧、白雲)は8月23日トラック泊地に到着した。歩兵第35旅団長川口清健陸軍少将が率いる川口支隊約5,000名を乗せた輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)は、既にトラック泊地に到着していた。24日、三水戦(川内、第20駆逐隊)は川口支隊輸送船2隻を護衛し、トラック泊地を出発した。だが25日、ガダルカナル島へ向かった第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)と輸送船団が、ヘンダーソン基地のSBD ドーントレスとエスピリトゥサント島のB-17重爆から攻撃される。駆逐艦「睦月」と輸送船「金龍丸」が沈没し、軽巡「神通」も中破、一木支隊第二梯団と海軍陸戦隊の揚陸を断念する事態となっていた。連合艦隊は一木支隊第二梯団のガ島直行を中止し、軽快艦艇によるガ島急速輸送「鼠輸送」の実施を決定した。 8月26日午前7時50分、南東方面部隊指揮官(十一航艦長官)は三水戦にガ島直行中止と、川口支隊一個大隊の27日夜ガ島揚陸を命じた。また外南洋部隊および同部隊増援部隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三海軍少将)にも鼠輸送と27日夜ガ島揚陸を命じた。南東方面部隊の命令をうけた三水戦と川口支隊は協議をおこなう。26日夜半に洋上(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯1度5分 東経156度35分 / 北緯1.083度 東経156.583度 / 1.083; 156.583)で陸兵一個大隊約600名を輸送船から第20駆逐隊に移乗させ、軽巡「川内」(第三水雷戦隊旗艦)が輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)を護衛してラバウルに送り、高速の駆逐艦4隻は27日夜にガ島揚陸をおこなう事になった。 8月27日朝、第20駆逐隊は飛行艇に触接された。外南洋部隊指揮官(第八艦隊長官)は日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊)のヘンダーソン基地空襲が不徹底と判断しており「川口支隊の揚陸を28日夜に変更し、第20駆逐隊はブーゲンビル島ショートランド泊地に寄港、第24駆逐隊司令村上暢之助大佐の駆逐艦3隻と合同せよ」と下令した。この時、第20駆逐隊はサンタイサベル島北方沖まで移動しており、ショートランド泊地に寄港すると燃料が不足する状態だった。そのため第20駆逐隊司令山田雄二大佐は、イサベル島北側で適宜待機し、28日午後にフロリダ諸島周辺で合流する方針を伝えた。 8月28日午前6時、第24駆逐隊司令指揮下の輸送隊(海風、江風、磯風)と、第六戦隊司令官五藤存知少将が指揮する支援部隊(青葉、古鷹)はショートランド泊地を出撃した。第20駆逐隊は、フロリダ諸島沖で第24駆逐隊と合流すべく南下を開始した。燃料不足のため低速で行動を開始したが、これが敵機の空襲を受ける要因となった。 午前8時、第24駆逐隊司令は第20駆逐隊に対し、ガ島での揚陸方法を下令した。直後の午前8時20分、第20駆逐隊はB-17に触接される。午後2時30分、イサベル島東海上のラモス島付近でヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレス(米軍の記録で11機)の攻撃を受けた。攻撃隊指揮官はアメリカ海兵隊のリチャード・C・マングラム中佐であったという。ドーントレス1機撃墜と引き換えに、第20駆逐隊は大損害をうける。「白雲」は軽負傷2名だったが機関室浸水により航行不能に陥った。また「朝霧」が沈没、「夕霧」も至近弾で損傷し、山田司令らが戦死した。無傷なのは「天霧」だけだった。第20駆逐隊の苦境は青葉偵察機も報告している。 大損害をうけた第20駆逐隊はガ島揚陸を断念した。「白雲」は「天霧」に曳航され、「夕霧」と共にイサベル島北側からショートランドへ向かった。救援の駆逐艦「陽炎」(二水戦、第15駆逐隊)は8月29日昼に第20駆逐隊と合流し、30日朝に4隻でショートランド泊地に到着した。この状況を受けて、第24駆逐隊司令は指揮下3隻(海風、江風、磯風)のガ島行を中止した。連合艦隊や外南洋部隊は第24駆逐隊のガ島突入を命じたが、24駆司令は独断で引き返した。輸送作戦は失敗し、当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌『戦藻録』に「 別働隊たる二十四駆逐隊は敵に発見せらるる所なかりしも、右報に依り引返し、第八艦隊は強行を下令、又之を取消す等の挙に出で茲に鼠上陸の第一日は見事に失敗せり。如何にするとも此敵機を壊滅するに非ざれば目的を達し難し 」と記述した。連合艦隊は第20駆逐隊の陸兵を健在の「陽炎」と「天霧」に移すよう命令していたので、外南洋部隊指揮官は敷設艦「津軽」に「白雲」曳航を命じた。このあと損傷艦(白雲、夕霧)はトラック泊地での応急修理と内地回航を下令された。 10月1日、第20駆逐隊は解隊された。「白雲」と「夕霧」は共に呉鎮守府警備駆逐艦となり、呉鎮守府部隊に編入される。2隻は修理のため日本に戻ることになった。10月7日、軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「白雲」は入泊した。翌8日、呉軍港に到着した。「白雲」の修理は呉海軍工廠と、藤永田造船所で行われた。この頃、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「大波」を建造していた。11月15日、平山敏夫少佐は白雲駆逐艦長と大波艤装員長の兼務を命じられた。11月23日、大波艤装員事務所は事務を開始する。12月20日、吉川潔中佐が大波艤装員長に任命される。平山少佐(白雲駆逐艦長、大波艤装員長)は兼務を解かれた。 なお『戦史叢書83巻』200-202ページでは『 1942年10月11日-12日のサボ島沖海戦に「白雲」が参加し、輸送隊の「夏雲」が沈没したあと、「白雲」と「朝雲」が「叢雲」の救援と処分を行った 』としている。このうち「白雲」は修理が必要な状態であり、実際にサボ島沖海戦に参加したのは「白雪」であった。「白雲」と「叢雲」は吹雪型駆逐艦、「朝雲」と「夏雲」は朝潮型駆逐艦である。さらに「白雲」と「白雪」は字体が似ている。このサボ島沖海戦で駆逐艦「吹雪」が沈没し、ネームシップを失った吹雪型駆逐艦は「白雪型駆逐艦」に改称された。
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