五藤存知とは? わかりやすく解説

五藤存知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/16 09:51 UTC 版)

五藤 ごとう 存知 ありとも
生誕 1888年1月23日
日本茨城県
死没 (1942-10-12) 1942年10月12日(54歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1910年 - 1942年
最終階級 海軍中将
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五藤 存知(ごとう ありとも、1888年明治21年)1月23日 - 1942年昭和17年)10月12日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

尾張国黒田の出身で、山内一豊に仕えた五藤為浄(通称吉兵衛)の子孫。父五藤近知と母加根の三男。父近知は水戸家徳川斉昭に仕え、書家水戸東照宮の明治に入っての初代宮司も務めた。妻恵津との間に美津、和子、尚子、たけ男、達子、厖(あつし)と六人いたが、和子、尚子、たけ男の三人は夭折。

海軍兵学校38期)卒。同期に栗田健男三川軍一らがいる。専門は水雷戦術で、駆逐艦戦艦山城」・「陸奥」の艦長を歴任した。太平洋戦争開戦直前に第6戦隊司令官となり、開戦後はトラックへ進出してウェーク島攻略作戦珊瑚海海戦第1次ソロモン海戦に参加。

1942年10月12日、サボ島沖海戦で敵艦を僚艦と誤認、乗艦していた重巡洋艦青葉」の艦橋に敵弾が命中して両足を吹き飛ばされ、出血多量で戦死した。最後まで同士討ちと信じていたらしく、「馬鹿者、馬鹿者」と言いながら絶命したと伝えられる。享年54。戦死後、海軍中将へ昇進。 葬送の際には、神奈川県知事近藤壌太郎勅使として派遣され、幣帛が下賜された[1]

年譜

脚注

  1. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、22頁。ISBN 978-4-487-74409-1 

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。

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