五藤浄基とは? わかりやすく解説

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五藤浄基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 08:04 UTC 版)

 
五藤浄基
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄6年4月21日1563年5月13日
改名 豊光→為友→浄基
墓所 高知県安芸市安芸城横にある安芸川北横山墓地
主君 山内盛豊一豊
氏族 五藤氏
父母 父:五藤平太郎
堀江の娘[1]
為浄為重
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五藤 浄基(ごとう きよもと)は、戦国時代武将山内家の家臣。

略歴

五藤氏は、尾張国葉栗郡黒田(愛知県一宮市木曽川町)の土豪の出で[2]橘諸兄の末裔とされ、そこより継承して記載されている家系譜が現在、安芸市立歴史民俗資料館に存在する。

五藤平太郎(藤原光基五藤平太郎)の子として誕生した。正式な名乗りは藤原光方五藤三郎左衛門浄基。

岩倉織田家の家老・山内盛豊尾張国郷戸の渡船にて会って意気投合し、家に数日滞在巨礼を執り近習奉仕する。五藤家の中で最初に山内家に仕えた。永禄2年(1559年)3月、岩倉城落城の際に盛豊が戦死すると、その子・一豊に供し母や弟妹と共に苅安賀城主・浅井政貞(新八郎)の許に身を寄せた。これは浄基の室が越前朝倉氏の孫だったため、室の縁故によるものかと考えられる。

永禄6年(1563年)、尾張国葉栗郡黒田[3]にて病死した。

功名が辻

1960年代に連載された司馬遼太郎の歴史小説『功名が辻』に、浄基の子である吉兵衛為浄、為重が登場する。一豊を支え、ときに口うるさく叱咤する様は、まさに家の執事的な役回りで描かれていた。史実とは異なり一豊より年上の天文4年(1535年)生まれと設定され、一豊の父・山内盛豊から2代に仕えている設定は、浄基と併せたものと思われる。

脚注

  1. ^ 越前朝倉氏娘。堀江景忠等と同住所であった。
  2. ^ 丸善出版編『47都道府県ご当地文化大百科』丸善出版株式会社、令和6年10月30日、pp.36-37.
  3. ^ 愛知県一宮市黒田。

出典

  • 五藤家系譜資料集初版

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