大統領としての指名から敗戦へとは? わかりやすく解説

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大統領としての指名から敗戦へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:45 UTC 版)

カール・デーニッツ」の記事における「大統領としての指名から敗戦へ」の解説

詳細は「アドルフ・ヒトラーの死」を参照 1945年4月23日ヘルマン・ゲーリング国家元帥連合軍単独講和申出反逆者として官職剥奪されハインリヒ・ヒムラーSS長官4月28日スウェーデン経由講和申出反逆者となり表舞台から消えたデーニッツは「ヒトラーの死軍律から解放されしだい」海軍降伏させ、自らは司令部地上軍として「玉砕」するとの決意部下娘婿ギュンター・ヘスラー打ち明けていた。 だが、ヒトラー遺書英語版)の中で後継者デーニッツ指命していたため、4月30日1930分、ナチス党官房長マルティン・ボルマンより電報第1号電報)が届いた。そこには「総統前国家元ゲーリングに代わって、海軍元帥閣下デーニッツ)、貴方を後継者指名した。」と書かれていた。しかしその電報ヒトラーの死には触れていなかったため、デーニッツはただちに「我が総統。貴方に対する私の忠誠不変です。貴方をベルリンから救出するため私は引き続きあらゆる手段試みます」と返信した。そして実際にデーニッツすぐさま海軍兵士ヒトラー救出部隊結成させ、ベルリンへ送り込んだ(この時に派遣され兵士のほとんどが戦死した)。 5月1日午前遺書発効」とのボルマンからの第2号電報で、ヒトラーの死知ったデーニッツヒトラーの死国民公表したその内容次のとおりであった。 全ドイツ国民ならびにドイツ国防軍の全兵士諸君我ら総統アドルフ・ヒトラー亡くなったきわめて深い悲しみ畏敬の念をもってドイツ国民首を垂れる。彼は早くから共産主義の持つ恐るべき危険性認識し、これと戦うことに全生涯捧げた彼のこの戦い果てに、ゆるぎなくまっすぐな人生果てにあったのは、ドイツ国首都での英雄的なであった彼の人生はドイツへ比類なき奉仕であった怒涛のようなボルシェヴィキ侵攻対し彼の戦いドイツ越えてヨーロッパに、文明世界全体投入された。総統は私を後継者指名した。私はその責任悟り、この過酷な運命時にあって、ドイツ国民指導引き継ぐのである同日、すでにヒトラーによって解任されていたヒムラーデーニッツのもとに現れた。ヒムラーデーニッツからヒムラー解任告げボルマン電報見せられたが、それに構わずデーニッツ祝辞述べとともに「私がナンバーツーとして貴方を支えたい」と申し出てきた。デーニッツはこれを断っているが、親衛隊警察勢力離反恐れてひとまず彼を政府留め置いている。しかし、連合国から「ホロコースト執行者」「強制収容所支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏処理のために設立され臨時政府であるフレンスブルク政府にとっては邪魔な存在であり、5月6日になってから「もう会うつもりはない」と通達して放逐した詳細は「フレンスブルク政府」を参照 5月1日午後ゲッベルスボルマン共同署名した第3号電報デーニッツのもとに届き、そこには「昨日15時30分に総統戦死4月29日付け遺書には、貴殿デーニッツ)を大統領に、ゲッベルス首相にボルマンナチ党大臣に、アルトゥル・ザイス=インクヴァルト外相に」指名するヒトラー遺書による内閣)とあった。デーニッツゲッベルスボルマン等を含む人事今後降伏交渉重荷になると考え第1号電報無制限権限得たとして、第3号電報存在握りつぶし暗号電文関係した通信士には口外禁じた[要ページ番号]。 そこでデーニッツ財務相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク筆頭閣僚(leitenden Reichsminister、首相代行)兼外相任命し組閣依頼した。なお、同日連合軍地上部隊せまって来たため、5月2日朝に総司令部フレンスブルク移したデーニッツ苦慮の後、ドイツ全土軍事占領されての「自然的終戦ではなく「公式降伏」が必要と判断したソ連占領地区での投降した軍民への容認できない残虐行為報告されており、そのため、西方での部分降伏行い東部では戦争継続し難民輸送兵員撤退をさらに継続するのが主要な目的であった。また「降伏軍隊がするので、国家がするわけではない条約上の降伏は、弱体化して国家主権維持できる可能性がある」とのクロージク首相代行の上申を容れた結果でもあった。 5月5日英軍モントゴメリー元帥との間で北ドイツ部分降伏発効させることに成功したまた、ボルマンゲッベルス対抗するために終戦処理政府立ち上げ連合軍に対して自らをドイツの正式代表として示した(ただし連合軍はこの表示曖昧な態度臨んだ)。 5月6日にはヨードル全権与えて米軍アイゼンハワー元に西部戦線での無条件降伏申し込んだ。ところが、アイゼンハワー5月7日までにソ連軍含めて無条件降伏を行わなければ、既に降伏している北部地区爆撃する通告した。これに対してヨードルはようやく発効5月9日とすることに成功したのみであったデーニッツは、この結果踏まえ海上輸送に全艦艇投入して続行することを命じた。このドイツ海軍最後の作戦ドイツ語版)は潜水艦をはじめ全ての使用可能な艦艇行われ公式には9日まで、実際に終戦後1週間程度継続された。1945年1月から5月デーニッツ200万人市民と兵を救出したが、その間ソ連軍攻撃1万人以上の損害バルト海などで発生した

※この「大統領としての指名から敗戦へ」の解説は、「カール・デーニッツ」の解説の一部です。
「大統領としての指名から敗戦へ」を含む「カール・デーニッツ」の記事については、「カール・デーニッツ」の概要を参照ください。

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