大統領1期目 - 亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:38 UTC 版)
「アラン・ガルシア」の記事における「大統領1期目 - 亡命」の解説
1985年、ガルシアはAPRAから大統領選挙に立候補し、1回目の投票で45%の得票を得て決選投票に進んだ。そして、決選投票でアルフォンソ・バランテスを破り、初当選を果たした。ガルシアは当時36歳、ペルーの政治史上最年少の大統領の誕生となった。またAPRAは1924年の創設以来、初めて政権を獲得した。 ガルシアは若々しい風貌から「ペルーのケネディ」と呼ばれ、就任当初は国内で高い人気を誇った。しかし、彼が就任した当時のラテンアメリカは深刻な経済危機に見舞われ、ガルシアも例外ではなく経済対策に追われることになる。ガルシアは「銀行の国有化」と「対外債務の返済凍結(返済額をGNPの1割に制限すると宣言)」という政策を断行するが、特に後者はIMFの激怒を買い、結果としてペルーは投資不適格国の烙印を押され、外国からの投資が途絶えて苦境に立たされる。 政権末期には、年率7000%以上の激しいインフレーションが起こって、経済は破滅的な状況となり、ガルシア自身の汚職疑惑も加わった。大統領の任期が満了した際には、アルベルト・フジモリを支持して、同氏が大統領になるとともに、自身は終身上院議員となった。その後、フジモリ政権と決別したため、フジモリ大統領による1992年の自己クーデター(アウトゴルペ)の後、フジモリ政権から訴追を受け、コロンビアに亡命し、その後フランス在住となる。
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