大統領 1801年-1809年
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「トーマス・ジェファーソン」の記事における「大統領 1801年-1809年」の解説
独立戦争時、貧弱な軍備のために敵前逃亡した苦い経験から、富国強兵政策を推進した。ジェファーソンは連邦政府の多くの税を撤廃し主に関税収入に頼ろうとした。ジョン・アダムズ政権で成立しており、ジェファーソンが違憲だと信じていた外国人・治安諸法の下で投獄されていた人々を釈放した。1801年の司法権法を撤廃し、アダムズの「真夜中の判断」で任命されていた多くの判事を解職した。このことで「マーベリー対マディソン事件」に関する重要な最高裁判所判決が導かれることになった。ジェファーソンは、アメリカとしては初の重要な海外戦争となった第一次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)を指揮してこれに勝利した。1802年にはウェストポイントの陸軍士官学校を設立した。 1803年、連邦議会の土地を購入する権限について合憲性に疑念があったにも拘らず、ミシシッピ川以西のルイジアナをフランスから1500万ドルで買収した(アメリカの小学生用歴史教科書にはジェファーソンは、「わが国のために、おそらく史上最大のバーゲン品を買い上げた」と紹介されている)。こうして得られた土地は現在のアメリカ合衆国領土の23%に相当している。 1807年、ジェファーソン政権では最初の副大統領だったアーロン・バーがジェファーソンの命令で反逆罪で裁判に掛けられたが、無罪となった。この裁判では首席裁判官のジョン・マーシャルがジェファーソンを召還したが、ジェファーソンは大統領特権を行使し、大統領として従う必要は無いと主張した。マーシャルが憲法では裁判所命令に従う任務について大統領に例外を認めていないと主張し、ジェファーソンが折れた。 2期目の終わりに撤廃された1807年の通商禁止法が効果が無かったことはジェファーソンの評判を傷つけた。 1803年、ジェファーソンは黒人をアメリカ合衆国の郵便を運ぶ業務から排除する法案に署名した。歴史家のジョン・ホープ・フランクリンは、この署名を「それをすることで利益を得られない自由黒人に関する根拠の無い嫌悪の表明」と呼んだ。 1807年、3月3日、ジェファーソンはアメリカ合衆国で奴隷の輸入を違法とする法案に署名した。
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