大統領から皇帝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 21:01 UTC 版)
「ジャン=ベデル・ボカサ」の記事における「大統領から皇帝へ」の解説
1966年、当時国軍参謀総長だったボカサは軍事クーデターで、経済政策で失敗したダッコ政権を倒し、翌年大統領に就任、この際16あった中央アフリカの省庁の中、14の省庁の大臣に自分自身を任命し、独裁政治をはじめる。1972年には終身大統領を宣言した。ボカサのクーデターは、ダッコ政権が中華人民共和国から巨額の融資を受け入れたことを批判するという、反共の砦を名目に掲げたものだった。 しかし、1976年8月に中央アフリカは台湾の中華民国と再び断交し、同年11月にボカサが中華人民共和国を訪れて経済協力を仰ぐなど変節し始めた。同年9月にはリビアを訪れてムアンマル・アル=カッザーフィーと面会してイスラーム教に改宗し、名前をサラー・エッディン・アフメド・ボカサに改名したが、リビアからの財政援助が滞ると同年12月にカトリックに再び改宗し、国名を「中央アフリカ帝国」とし自ら皇帝として即位した。 改称からちょうど1年後の1977年12月4日には、国家予算の2倍にあたる2500万ドルを費やしてナポレオン1世を真似た豪華な戴冠式を行い、「皇帝ボカサ1世」となった。 着飾った200人の騎兵隊と数百台の高級自動車・バイク隊に護衛された、8頭立ての馬車で登場。ダイアモンドをはめこんだ2mの大錫杖と剣を手にし、頭には8000個のエメラルドとダイアモンドをちりばめた王冠を戴いた。外套は真珠と水晶で飾った礼服の上に白いテンの毛皮。大玉座は黄金の翼を持つ「ナポレオン鷲」を模した重さ2トンの青銅製で、フランスから取り寄せた酒と料理が振舞われた。また、ナポレオン1世の戴冠式を真似て、ローマ教皇パウロ6世を招待したが、教皇はこの招待を断っている。国力とあまりにかけ離れた戴冠式に、世界中から批判を受けると「偉大な歴史は、犠牲なくしては創造できない。民衆は犠牲を甘んじて受けるのだ」と語った。日本の昭和天皇やイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーも式典に招待されたが、出席はしなかった(天皇・皇帝名で祝電を送ってはいる)。 旧宗主国フランスから支持と援助を取り付けるため、フランス大統領ジスカール・デスタン(当時)に膨大な贈賄工作をした。工作が功を奏してフランスからは皇帝として承認され、経済的支援も受けることに成功した。 ボカサ1世は反対派を容赦なく弾圧・粛清し、独裁政治を続けたが、粛清による人材不足や元々脆弱であった中央アフリカ経済の悪化などが重なり、帝政は崩壊への一途を辿った。1978年には息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子も国外追放される。 ボカサ家が経営する会社が作製する制服の全小学生への着用義務化を強行するが、1979年1月に反対学生のデモが勃発した。ボカサ1世はこれを武力鎮圧し、400人の死者を出した。国際的にボカサ1世への非難が高まると、旧宗主国のフランスもボカサ1世を見限り、帝政打倒を画策し始めた。 ?中央アフリカ帝国の皇帝旗 ボカサ1世の王冠
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