国連委員会とその活動
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「国際連合安全保障理事会決議47」の記事における「国連委員会とその活動」の解説
詳細は「国際連合インド・パキスタン委員会」を参照 国際連合インド・パキスタン委員会(UNCIP)は、チェコスロバキアのジョセフ・コーベル、アルゼンチンのリカルド・スィリ(Ricardo Siri)、ベルギーのエグベルト・グラエフ(Egbert Graeffe)、コロンビアのアルフレッド・ロサノ(Alfredo Lozano)、アメリカのジェローム・クラール・ハドル(Jerome Klahr Huddle)の5カ国の代表で構成されており、1948年7月にインド亜大陸に到着し、活動を開始した。ジャンムー・カシミール地方のシェイク・アブドゥッラー政府とムザファラバード地方のアザド・カシミール政府の争いについて8月13日以下の決議を採択した。 停戦への対処、敵対行動の完全な停止の要求。 停戦協定(パキスタンの軍隊、部族、その他のパキスタン国民を含む戦闘部隊の完全撤退を求め、避難した地域は委員会の監視下で地方自治体が管理することを明記している。パキスタンの撤退後、インドは「大部分の軍(bulk of its forces)」を撤退させ、法と秩序の維持に必要な最低限のレベルまで下げることを期待した)。 休戦協定承認後、印パ両国が委員会との協議に入り、国民の意思に基づいて国家の将来を決定すること。 休戦協定を先回しにし、パキスタンによる侵略行為を暗に認めたこの決定にパキスタンは非常に多くの留保や条件を付け、委員会は「拒絶に等しい(tantamount to rejection)」とし、パキスタンが戦後の公平な国民投票に関心を寄せていると考えた。しかしながら最終的に翌1949年1月1日停戦が実現。5日に決議の補足事項を盛り込んだ。 しかしインドは予定を早めて「アザド軍」の解散を主張。これをパキスタンが拒否したうえ、非武装化に関しても双方から拒否があったため仲裁を図ったが、インドはこれに関しても「断固とした即決(affirmative and immediate decision)」が必要だと言ってこれを拒否した。委員会の見解としてはこれは「アザド軍」の拡大がインド軍の撤退を困難にさせているとのことであった。さらに、「北部地域」(上述の通り現在のギルギット・バルティスタン州のこと)をめぐっても難航した。最終的に委員会の監督下にある「地方自治体(local authorities)」が当該地域を統治し、国連監視団が必要とした時のみにインド軍の派遣を行うとの妥協案も双方から拒否された。 結果委員会は失敗を宣言し、1949年12月9日に安全保障理事会に最終報告書を提出した。
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