独裁権の返上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「独裁権の返上」の解説
評議会を終えた後、執務室でスコルツァら反対票を投じた者達からグランディらの逮捕を提案され、党本部で用事を済ませてから自宅に戻った際には妻ラケーレからも粛清を勧められているが、いずれも却下している。ムッソリーニは休戦計画も粛清も内戦に繋がることに変わりはないと考えて、国家が結束を失わない形での決着を模索し、サヴォイア家による仲裁に望みを託していた。だが既に宮内大臣アックアローネら王党派とアンブロジオ統合参謀本部総長らはムッソリーニの拘束を決意していた。 1943年7月25日、ムッソリーニは自宅で僅かな仮眠を取り、朝早くヴェネツィア宮に向かった。ヴェネツィア宮の執務室ではグランディと連絡を取って議論を試みているが、グランディは既にアックアローネから軍部と王家の決起を聞いて身柄を隠していた。ムッソリーニは暫く執務室に滞在し、同日に処刑が予定されていた2名のクロアチア人パルチザンへの恩赦を命じ、国王副官のパオロ・プントーニ将軍に月曜日の定例謁見を夕方に繰り上げる様に連絡を入れた他、日本の日高信六郎駐伊大使と面会している。 7月25日午後3時、謁見に向かう前に自宅に戻ってラケーレと昼食を取り、謁見用のスーツとフェルト帽に着替えて愛車のアルファ・ロメオで出発した。目的地は儀礼的な式典が行われるクィンナーレ宮ではなく、サヴォイア家の離宮と庭園があるヴィッラ・サヴォイア(イタリア語版)へと赴いた。予定より謁見が早まったために軍部と王党派は大急ぎで準備を進め、クーデターは陸軍ではなく警察軍(カラビニエリ)を主体として行われることになった。軍部と王家から首相に選定されたバドリオはクーデターの実務には全く関与しておらず、サヴォイア家から爵位と共に与えられていた邸宅で休暇を取り、カードゲーム(ブリッジ)をしていたという。 7月25日午後4時55分、ヴィッラ・サヴォイア(イタリア語版)の門前に護衛が乗った3台の車両と訪れ、車から降りると秘書官のみを連れて離宮へと入っていった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は大元帥の軍服を身に纏い、中央玄関で出迎えて謁見室までムッソリーニと歩いている。謁見室にはプントーニ将軍のみを扉の前に残し、20分ほどムッソリーニと会話している。 ムッソリーニが大評議会の決定について述べようとすると、それを遮るようにしてエマヌエーレ3世はピエトロ・バドリオ元統合参謀本部総長に組閣を命じる勅令を下した。唯一同席していたプントーニによれば、勅令を述べ終わるとムッソリーニが「では、全てが終わった、ということですか」と尋ね、エマヌエーレ3世は「残念だが…実に残念だ」と呟いたという。エマヌエーレ3世はムッソリーニに握手をし、「余の責任において身の安全は保障する」とも話したという。 謁見を終えてムッソリーニがヴィッラ・サヴォイアから外に出ると、待ち構えていた護衛のカラビニエリ(国家憲兵、警察軍)に身辺警護を名目に身柄を拘束された。
※この「独裁権の返上」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「独裁権の返上」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。
- 独裁権の返上のページへのリンク