独裁機構への途
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「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「独裁機構への途」の解説
大公安委員会が前車の轍を踏まないためには、より強力な権力と独裁を必要とした。それはとりもなおさず確固たる政府の必要性ということなのだが、8月1日に公会議長ダントンの提案は拒絶にあった。彼は公安委員会を臨時政府として昇格させようと演説し、(事実上の事態の法的追認にあたる)大臣を第一書記としようと提案した時、ロベスピエールは大臣の職権と現在の組織を擁護して反対し、エロー・ド・セシェルも委員が行政上の監察まで責任を負わされることになると批判して、公会はこの意見を退けた。ダントンの意見は辛うじて、予算的自由を与えるための機密費の増額という点だけ採用され、従来の50万リーヴルから5000万リーヴルに増やされたが、罵声も浴びたダントンは面目を潰した。要するに、法的な建前を整えるよりも先に、統一的指導を確立する方を優先したわけである。 非立憲的な臨時体制、いわば"革命的"な体制が維持されるという方針は、8月11日、ドラクロワの1793年憲法に基づく新しい議会のための選挙準備をする提案に対するロベスピエールの反対でさらにはっきりした。憲法を実際に施行するかどうかは、当時、諸派で意見の分かれている問題であったが、憲法を即時発効させて議会を選挙で新しくするというのは、現在の山岳派支配を覆そうという意図があると判断されることが多かったので、憲法発効支持派は、ほとんど議席を持たないエベール派や、議会を追放されたジロンド派などのシンパであると敵視された。よってロベスピエールは激怒して異議を唱え、辞任すら示唆したが、そのジャコバン・クラブでの演説は大喝采を浴びてジャコバン派全体に支持され、連盟兵の後押しもあって反対派を黙らせた。これによって国民公会の非解散と新憲法実施の無期限停止が決定した。憲法の施行はその後も何度か提案されたが、8月28日には平原派のバレールも平和なときに作られた憲法は現状では力はないと実施に反対した。 連盟兵はもう一つ重要な役割を果たした。8月23日、彼らは国民総動員令を制定するように公会に強訴したのである。連盟兵の要求した大量募兵のアイデアにはロベスピエールは反対で「足りないのは兵士ではなく、将軍であり、彼らの愛国心なのだ」と言って諭そうとしたが、連盟兵はコミューンに圧力をかけて、無理に公安委員会に採択を迫った。(人気取りのために大衆に迎合した)ダントンらの提案で、兵士を徴集するのに見合う経済的な動員も可能となるように修正をうけた同法は、人間、食物、商品など一国家の一切の資源が政府の掌中に預けることを意味し、公安委員会の役割を甚だしく広げた。18歳から25歳までの男子は兵士に、老人や女子供は生産や医療に動員できることになったほか、臨時徴税や物資徴発も現場の判断で可能になった。その現場の責任者である派遣議員には恐怖政治(テロル)を実践する権限が与えられたことになる。 同日、エベール派は、同派が一切の影響力を持たない諸委員会が権力を奪っているとして、大臣職の復権を要求し、(施行されていない)新憲法の大臣選出の方法だけの実施を要求した。これは人民が直接選んだ選挙人会によって一般候補者名簿が作られ、そこから議会が大臣24名の内閣を選ぶというもので、この方法での内閣刷新を阻止するのに、ロベスピエールは苦心した。 前述のように9月5日のエベール派の扇動によるデモにより、当時の表現でいうところの「恐怖政治が議事日程に載った」が、「これこそ人民を目覚めさせ、自ら自分を救わしめる唯一の方法である」と連盟兵ロワイユは誇らしく言った。革命裁判所は刷新され、ようやく機能しはじめた。国民公会は恐怖政治を具体化させる法案をいくつか可決し、サン・キュロット民兵は革命軍(フランス語版)として雇用されることになり、ギロチンとともに行進して、農村に麦が蓄えられていないか、商人宅に商品が隠されていないかを探すことになった。革命委員会の役員にも賃金が払われるようになった。これらの人々には共に極左派が多く、エベール派を満足させる決定であった。 9月13日には、公安委員会以外のすべての委員会は改選されることが決まり、以後、他のすべての委員会は公安委員会の監視下に置かれ、候補者のリストは公安委員会が提出して公会が選ぶことになった。これは恐怖政治でより強い力を持つことになる保安委員会から事前にダントン派を排除してしまうことを目的とし、同時に地方の人民結社・政治クラブから疑わしい役員を除くことも目指していた。公安委員会の優越権が法令で認められた最初で、公安委員会独裁の始まりとなり、中央と地方の両方に浸透する一党独裁的な体制ができていった。公会と連絡を密にしていた派遣議員は、今後は公安委員会に属し、公会ではなく委員会に報告義務を負うようになった。 9月17日、公会は反革命容疑者法を成立させ、恐怖政治の手段を完成させた。このときまでは恐怖政治が誰を対象としているのか明らかではなかったが、同法は極めて適用範囲が広く、十分に革命的ではないとされた誰もが容疑者となり得た。9月29日には一般最高価格法(フランス語版)も可決され、公会も公安委員もこの法案にはあまり賛成していなかったが、統制経済の調整も公安委員会に委託された。 革命政治は公安委員会の単一指導、要するに独裁で推し進められることになったが、見てきたように、公安委員会はその執行を勝手に押しつけられたわけであり、イポリット・カルノー (Hippolyte Carnot) によれば「せっぱつまっての独裁」であったが、「パンを!」と怒れる人民が性急に改善を求めるこういうせっぱつまった状況でも、ロベスピエールが、左派の突き上げを利用して右派を抑え、右派の協力を得て左派の脅威をかわすという、政局の綱渡りを行って、徐々に中央機構を強化していったということは特出すべきことであった。
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